アジア新風土記(89)マラッカ - 2024.11.15
伊藤博文を激怒させた硬骨の外交官加藤拓川
帝国主義の時代を生き抜いた外交官とその知友たちの物語
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正岡子規の叔父であり、秋山好古の幼なじみである加藤拓川。司馬遼太郎の『坂の上の雲』ではほとんど取り上げられなかったこの人物の生涯は、明治・大正を語る上で欠かすことのできない著名な人びとたちとの交流で彩られている。
帝国主義に対して批判的な目を持ちながらも、日本帝国主義の外務官僚として実績を重ね、親友・原敬のたっての頼みでシベリア干渉戦争の真っ最中に全権大使としてシベリアに派遣されるなどの反面、師の中江兆民同様に部落問題に関心持ち、最晩年の松山市長時代には軍国主義反対演説を議会で行うなど、人権問題や平和主義を実践しようとした言動に光が当たる。
「本邦初」というべき加藤拓川の本格評伝を読めば、昭和の悲惨な戦争につながる歴史ではない「その後の『坂の上の雲』」が見えてくる!
また、その一方で、思想家・中江兆民を師に持つ彼は、帝国主義を「盗賊主義」と批判したり、最晩年には軍備撤廃論や反軍国主義を主張するなど、先駆的ともいうべき平和主義者の側面も持ち合わせています。この歴史に埋もれた人物の初の本格評伝は、〈もう一つの『坂の上の雲』〉〈その後の『坂の上の雲』〉を描いたたいへん貴重な労作となりました。ぜひ、日本近代史に関心のある多くの読者に読んでいただきたいと思います。
Ⅰ 拓川加藤恒忠の生い立ち
拓川が自分で書いた墓碑銘
藩校明教館の秀才だった拓川と秋山好古
司法省法学校入学とまかない騒動
拓川と四人の同志たち
Ⅱ 中江兆民の仏学塾に学ぶ
仏学塾入塾の経緯
仏学塾のカリキュラム──兆民は歴史・漢学を重視した
仏学塾の廃塾──強まる国家主義の下で
師・中江兆民の生い立ち
兆民の知友たち
兆民と部落問題・アイヌ問題
兆民の自由・平等論
仏学塾時代における拓川の交友関係
Ⅲ 外交官人生──帝国主義の狭間で
子規の入京と勉学──陸羯南・夏目漱石との出会い
拓川のフランス留学──「盗賊主義」批判
原敬の周旋で外交官に──駐仏公使館勤務
外相秘書官・フランス再赴任
Ⅳ 日清・日露戦争期の拓川とその知友
日清戦争をめぐる西園寺公望と原敬の動向
陸羯南は日清戦争をどう見たか
子規の日本新聞社入社と日清戦争への従軍
日清戦争での秋山好古の動向
日清戦争の実態
拓川の結婚
日清戦争後の中国の半植民地化と拓川の動静
師・兆民の死
駐ベルギー公使時代――子規の死
日露戦争概観
日露講和条約批判と非戦を唱えた人びと
Ⅴ 保護国韓国を巡って──「盗賊主義」に我慢ならず
韓国の保護国化
赤十字条約改正と拓川
韓国統監・伊藤博文の影
外務省を依願退職
Ⅵ 新聞記者・代議士・貴族院議員時代
新聞記者にして代議士
拓川の外交官辞職後の政治情勢──西園寺公望・原敬を中心に
帝国議会議員としての活動
Ⅶ シベリア派遣全権大使として
パリ講和会議代表団への参加
ロシア革命を奇貨としてシベリアに出兵
シベリア派遣大使就任
シベリア侵略戦争の敗北
ニコライエフスク事件(尼港事件)と完全撤退
外交との「離縁」──軍備撤廃を主張
Ⅷ 松山市長の九カ月
松山市長就任
私立松山高等商業学校(現松山大学)の創設
拓川と新田長次郎の友情
好古の晩年の活動
旧制松山高等学校の争議
市長在任中における拓川の闘病と最後の広東旅行
拓川の反軍演説
拓川死す
おわりに
加藤拓川略年譜
成澤榮壽(なるさわ・えいじゅ)
1934年、東京に生まれる。62年、早稲田大学大学院文学研究科(史学専攻)修士課程修了(西岡虎之助先生に師事)。専門は日本近代史。同年、東京都立正高等学校勤務を皮切りとした教員生活は、2000年、長野県短期大学長の退任をもって終止符を打つ。
現在、部落問題研究所理事長、全国公立短期大学協会顧問。
主な著書:『日本歴史と部落問題』(部落問題研究所、1981年)、『人権と歴史と教育と』(花伝社、1995年)、『部落問題の歴史と解放運動 近代篇』(部落問題研究所、1997年)、『歴史と教育 部落問題の周辺』(文理閣、2000年)『島崎藤村「破戒」を歩く』上・下(部落問題研究所、2008年・2009年)、『美術家の横顔 自由と人権、確信と平和の視点より』(花伝社、2011年)ほか。