アジア新風土記(87)タイ・モン族の稲刈り




著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。






タイ北東部の山間は雨季の終わり近く、激しい雨と晴れ間が代わる代わるだった。

雨をやり過ごした日差しが尾根を越えて山肌にあたると、草原のような一角が黄金色に輝き、少数民族、モン族の畑のイネは収穫期を迎えていた。
畑といっても整然とした畑ではない。雑草の中にイネが混ざり、イネの中に雑草が混ざっていた。
山裾から人が一人通れるかどうかの急坂の小道を登りながらイネを探し、先端が鋭く伸びた葉の間に細長い粒を見つけて、そこが畑だとわかる。
夕日が差してくると、小さな粒の一つ一つが日を浴びて鮮やかに光った。
畑の周りにはコスモスの花が咲いていた。ハイビスカスもあった。
海抜700メートルほどの山は、季節の移ろいを曖昧のままにしていた。


モン族の山間の畑



タイ・ナーン県の中心地ナーンの町から北に約35キロのところにあるモン族の村、バーンポーイ村の稲刈りは、村人たちが鎌を手に、稲穂をまとめて刈り取っていた。
周りにはまだ熟していないイネも多く、日本のように一斉に刈り取るのとは違っていた。

育てているイネは100年以上前から同じだった。
香りがあって味のいい「ドー」、滋養分に富んだ「チャウ」など3種類の陸稲だ。
背丈は1メートル以上にもなる。村人の一人は「ドーは早く育ち、早く実るという意味だ」と教えてくれた。
6月に植えて早ければ9月には刈り入れができるという。

畑の所々にまとめられた稲束は、村人たちが山裾近くまで背中に担いでくる。
下り坂も気にせず、リズミカルだった。
稲藁で屋根を拵えただけの簡単な休憩所で一息入れる。
男衆も女衆も笑い声が絶えなかった。
脱穀場はビニールシートを敷いただけだ。
稲束を思い切り叩いて脱穀していた。
籾殻が風に乗って飛んで行った。
その籾殻を追うように谷を見下ろすと、小さな集落が見えた。


収穫を前に出来具合を見る



収穫風景



どのぐらいの重さだったのか



脱穀場



バーンポーイ村には140家族を超え、1000人が暮らしていた。
20年ほど前のことだ。いまでも村の規模は同じぐらいなのだろうか。
畑は増えたのか。育てているイネも同じなのだろうか。

ナーン県の東はメコン川を挟んでラオスだ。
メコンの中流域は大地を大きく削り取り、下流域のメコンデルタのゆったりとした流れとは様相を異にする。
水量は豊かなのだが、ラオスの人たちには恵みの川とは言えなかった。
人々の暮らすところはメコンの川底から見るとはるか上にあり、メコンの水を直接田んぼに引くことができない。
大地と川面にそれほどの差がないとポンプによって水を引き上げる。
天水利用は雨季の雨が頼りだ。灌漑施設の整備充実は今も昔も変わらない。



インドネシア・スラウェシ島は、平地は青緑色の稲田が続き、日本の夏の農村風景を見る思いだった。
田んぼの脇で草を食む水牛、畔に生えているヤシの木がわずかに熱帯の水田であることを示していた。
山道を入っていくと棚田になった。海抜が高くなると気温も下がってくるのだろうか、田植えの最中だったり、田起こしが終わったばかりだったりした。


スラウェシ島の田園はのどかだった



田植え風景



棚田が続いていた





インド東北部の棚田は圧倒的だった。
ミャンマーと国境を接するナガランド州の南部・ペク県、ナガ族の田植えから収穫までを追ったドキュメンタリー映画「あまねき旋律」(2017年)の迫力を忘れることができない。


険しい山肌につくられた棚田では機械は使えなかった。
すべてが人力だ。上半身裸の男たちの田起こしは力仕事だった。
体は泥だらけになっていた。画面いっぱいに広がる茶褐色の泥は、その中にまるで生命の根源が潜んでいるかのように躍動していた。

苗代がつくられ、田植えは苗一本一本、女たちによって植えられていく。
草むしりは霧雨の中でも続いた。作業の合間にはいつも歌があった。
「リ」と呼ばれるこの地方の民謡は男女が掛け合う歌があるなど多声的合唱、多声音楽のジャンルに入るという。
秋の稲刈りもまた歌と一緒だった。
村人たちが背中に刈り取ったばかりの稲束を担いで脱穀場に運んでいく姿に、モン族の人たちが重なった。




アジアを歩いていると、様々なところで稲作風景にぶつかる。
山岳地帯は糯米(もちごめ)が主流になり、平野部に行くにつれ、粳米(うるちまい)が増えてくる。
民族が異なり、稲田を取り巻く環境、イネ、米の種類は違っても、田起こしに始まり、田植え、雑草取り、そして稲刈りと続くサイクルは変わらない。

アジアの人たちにとって、イネはどのような存在なのだろうか。
米とは何かと思う。
古の時代から豊穣な社会をもたらしてくれた景色に懐かしさがこみ上げてくる。厳しい農作業のなかに、悲しい顔を見たことがなかった。
そのことが不思議だった。



イネはイネ科イネ属の植物で23種77系統あり、20種は野生イネだ。
原産地は中国・長江流域の湖南省辺りと考えられ、野生イネから人々の主食となった栽培イネが生まれた。
最近の研究では2022年、神戸大と英国、ミャンマーなどの研究チームが栽培イネの初期過程で3つの遺伝子変異が起こり、穂が落ちにくくなったと発表している。

栽培イネは日本、朝鮮半島などのジャポニカ種とインド、東南アジアなどのインディカ種に大別され、ジャポニカ種の出現が早いとみられている。
ジャポニカ種とインディカ種の交雑種で実用に成功した例に台湾の「蓬莱米」がある。


台湾は元々インディカ種が生産されていた。
日本が植民地として日本人の移住が増えていくにつれ、日本の米を求める人も増えていった。
こうした社会状況を背景に農学者の磯永吉、末永仁が日本米を台湾の気候風土にあった米に改良、1926年に台湾総督によって「蓬莱米」と命名される。
その後ジャポニカ種とインディカ種を交雑したイネの取り組みが続き、現在ではこうして生産された米を蓬莱米と総称している。



台湾・池上郷の春

台湾の南東部、池上郷はブランド米「池上米」の産地として知られる。
台湾鉄道の池上駅は昼時、特急が停車すると乗客が一斉にホームに飛び出す。
その「現場」に遭遇したとき、一瞬分らなかったが、すぐに駅の「弁當」(駅弁)が有名だったことを思い出して駆けつけた。
弁當はすでに売り切れてしまっていた。
台湾の人たちも日本人に劣らず米の味に貪欲なのかと感心したが、いまでも心残りの一つだ。


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