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アジア新風土記(35) ペロシ訪台
著者紹介 津田 邦宏(つだ・くにひろ) 1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。 |
米国のナンシー・ペロシ下院議長(民主党)が2022年8月2日、
台湾を訪問した。
午後11時45分過ぎに台北・松山空港に降り立つと直ちに
「世界は専制主義か民主主義かの選択に直面しており、
米国と2300万人の台湾の人々との連帯は、これまでになく重要になっている」
との声明を出した。
訪台の意図が集約されたメッセージだった。
ペロシ氏の7月29日からのアジア歴訪は、日程に台湾の名前はなく、
公式の表明もなかった。
英紙フィナンシャル・タイムズが7月中旬、台湾を訪れる意向だと伝えると、
訪台は一気に現実味を帯びた話になった。
米国の下院議長は大統領継承順位が副大統領に次ぐ2位で、
その言動は国内外に影響を与える。
米国との正式な国交はなく、中国が「不可分の領土」と主張する
台湾への訪問は東アジア情勢を緊迫化させる外交安保問題だった。
「ペロシ訪台」の背中を押したのはなにか。
バイデン米大統領は20日、英紙を裏書きするかのように
「軍はいまは良い考えと思っていない」とコメントする。
中国の習近平国家主席も28日の大統領との電話首脳協議で
「いかなる形の台湾独立勢力にも一切の隙間を与えない。
火遊びをすれば必ず自らを焼く」
と警告した。
両首脳の発言によってペロシ氏はいわば引くに引けない立場に立たされる。
水面下にあったかもしれない計画は具体的な「予定」へと変わった。
ペロシ氏は人権問題に鋭敏な感覚を持ち、天安門事件の2年後に
天安門広場で「中国の民主化のために亡くなられた方々へ」という
黒い横断幕を掲げたことでも知られる。
バイデン氏らの発言がなくても訪台を実現させたかもしれない。
しかし、発言がなければ、最後の最後まで自分の意思で判断、
行動することができたのではとも思う。
台湾滞在2日目の8月3日、ペロシ氏は総統府で蔡英文総統と会談、
米国が台湾の民主主義を守ると改めて強調、
蔡総統も「台湾が侵略されれば、インド太平洋地域の安全が揺るがされる」
と応じた。
中国は4日から台湾を取り囲む6か所の空海域で合同軍事演習を実施、
100機以上の軍機、10隻を超える軍艦を展開、弾道ミサイルも11発を発射する。
ミサイル5発は沖縄・波照間島南西の日本の排他的経済水域(EEZ)内に落下した。
中国税関総署は建築資材に欠かせない自然砂の輸出をストップしたほか、
台湾産柑橘類、魚介類、菓子などの食品の輸入を一時停止するなどの経済制裁に踏み切った。
秋に中国共産党大会を控える習氏は、党幹部、長老らが集まる夏の河北省・
北戴河での「北戴河会議」で異例の総書記3選の足固めを目論む。
対米強硬策によって党内の「3選反対」の動きを封じるとともに、
国内の反米感情にも応える必要があった。
ただ、ペロシ氏の訪台がなくても道筋はすでに出来ているともみられ、
国内の政治状況にどれほどのインパクトを与えたかはわからない。
米国と台湾(中華民国)が国交を断絶した後に訪台した下院議長は
ペロシ氏が最初ではない。
1997年4月、当時のニュート・ギングリッチ議長(共和党)が共和、
民主両党の国会議員を率いて台北の土を踏んでいる。
前年には台湾初の総統直接選挙が行われ、李登輝総統が実現していた。
このとき中国は台湾近海でミサイルを発射させるなどの圧力をかけたが、
米国が原子力空母「ニミッツ」などを急派して圧倒的な戦力の違いを見せつけた。
中国側は同議長らの訪問を暗黙裡に容認する。
3か月後の香港返還を前に、欧米との必要以上の摩擦を避けたいという
思惑もあったとみられる。
今回の強烈な反発は25年前に比べて経済力も軍事力も大きく飛躍した
自信がもたらしたともいえる。
しかし、今後の対米関係、台湾政策を展望する時、
演習の常態化、経済制裁などを上回るだけのカードがあるか
という疑問を残したことも確かだ。
米軍の台湾軍支援が予想される中での「台湾侵攻」に踏み切る蓋然性は
むしろ低くなったのではないか。
国際社会の好意的な反応もペロシ訪台に反対を表明したのは北朝鮮、
イランなどの反米国家だけという事実からみて期待できないだろう。
米国はホワイトハウスと議会との意見調整が難しくなっていくのではないか。
議会は与野党とも彼女の訪台を支持する。
上院では超党派の議員が提出した台湾を北大西洋条約機構(NATO)以外の
「主要同盟国」として高性能兵器供与も可能にさせる「台湾政策法案」が
審議中だ。
政府に従来の台湾防衛意思を明らかにしない「あいまい戦略」の見直しを
求める動きも出ている。
「台湾擁護」の加速によって、米国が認識する「一つの中国」という前提も、
香港の一国二制度の形骸化に似て、フレームを残したままの有名無実化が
進んでいるようにも思える。
トランプ前政権の国防長官だったマーク・エスパー氏が22年7月19日、
台北で蔡総統に「一つの中国」政策について「すでに不要だ」との見解を
示したことも、こうした意見が市民権を持ち始めていると感じさせた。
ペロシ氏の訪台と米中両首脳の対応は、
台湾が国際社会での「地域」という決まり事から限りなく
「国家」と見なされる段階へと押し上げられつつあることを実感させる。
そして台湾自身もそのような変化への対応を迫られる。
蔡総統は28日、自民党の石破茂元幹事長らに安全保障問題で
「台湾は第一列島線の重要な防衛線上にある。
日本などの民主主義国のパートナーと協力を深めていきたい」
と語った。
「第一列島線」は中国の軍事的防衛ラインとされ、沖縄から、台湾、
フィリピン、インドネシアまでを結ぶ線だ。
総統の発言は「一国家」としての姿勢の一つとみることもできる。
台湾の人たちは「国家」として受け入れられることをどう思っているのか。
そこに戸惑いも感じているのではないか。
李登輝元総統はかつて「台湾はすでに独立した存在である」として、
「台湾独立」を宣言する必要はないという考え方を示した。
多くの人々の気持ちはいまも故総統と変わらないのではないか。
「くにづくり」を進めてきた台湾は、
これからの国際社会で「国家」としての立ち位置を
どうとっていくのだろうか。