アジア新風土記(80) 香港・ジョルダーノ




著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。





返還前の香港は世界各地の一流ブランド品に溢れ、毎年の季節の折々に、香港島・中環(セントラル)、九龍半島・尖沙咀(チムサアチョイ)の通りは「New Arrival」品がショーウインドーを飾り、香港っ子は競って流行を追いかけた。

シャネル、グッチ、プラダなど圧倒的な欧米ブランドの中にあって、地元の「ジョルダーノ」の粋で気取らない実用的な服は、自由な香港そのもののような気がした。

アパレルチェーンの「ジョルダーノ・インターナショナル(佐丹奴国際有限公司)」を設立した黎智英(ジミー・ライ)氏の生い立ちが、そのような思いを呼び込んだのかもしれない。

大戦後の混乱する中国・広東省に生まれ、1960年、12歳のときにマカオから香港に密入境する。

九龍半島の手袋、ウィッグ工場に職を見つけ、独学で株式などを勉強、81年にジョルダーノを立ち上げる。

香港への憧れは自由な香港への憧れであり、89年に北京・天安門事件が起きた時は、香港の民主化支援デモに参加した人たちに「私たちは怒っている」などとプリントしたTシャツを配った。


事件を一つのきっかけとしてメディアの世界に入り、95年、日刊紙「蘋果日報(アップルデイリー)」を創刊する。

自由な論調を基調に、政治問題から社会の三面記事まで香港、中国の様々な事象を紙面に反映させた。

香港返還後も中国、香港特別行政区(香港特区)政府への批判的なスタンスは変わらず、「一国二制度」の変化をフォローしていった。






黎氏と蘋果日報の報道姿勢が20年6月に施行された香港国家安全維持法(国安法)と相容れないことはだれの目にも明らかだった。

黎氏は未許可集会を呼びかけたなどとして実刑判決を受け、22年12月には所有会社のリース契約で詐欺罪に問われ、禁錮5年9月の実刑を言い渡されている。

蘋果日報も国安法施行の1年後に発行停止に追い込まれた。
香港政府、中国政府の政策を指弾する新聞の幕引きはそのまま香港言論の終焉を意味していた。








2023年12月18日、黎氏に対する国安法違反罪などの裁判が西九龍裁判所で始まった。

黎氏は無罪を主張している。
当局は違反理由として、黎氏と蘋果日報が19年 4月以降、中国に批判的な報道を続けたことが「扇動的な刊行物の発行」に相当し、中国政府への制裁について報じたことが「外国勢力との結託」にあたるとした。

公判は香港政府が指名する3人の裁判官が担当、民間人の陪審員は「安全上の理由」で排除された。

黎氏の英国人弁護士も出廷を拒否される。

24年5月、日本、英国など9か国の政治家らが自分たちの名前が証拠の中に引用されているとして、証拠提出と証人喚問を訴えたことが報じられたが、香港政府の反応はなかった。
(BBC NEWS JAPAN 24年5月14日) 

公判開始から半年が経つ。
裁判がどのように進んでいるかの詳細は伝わってこない。


24年3月19日、立法会(議会)は「国家安全維持条例」を全会一致で可決する。香港基本法23条に定められた国家分裂、反乱扇動、反逆などの行為を禁ずる法令の制定に基づくもので、国安法を補完する条例だった。

政府提案から10日ほどで可決された。民主派不在の立法会に反対意見が出ることはなかった。

03年に初めて提案したときは、50万市民の反対デモによって撤回を余儀なくされていた。


条例は国安法と同じように国家の安全に抵触するものはなにかという具体的な要件には触れていない。

域外勢力と共謀して国家の安全に危険にさらす行為を禁じているが、域外勢力には外国政府、NGOなど幅広い分野も含まれているとみられる。

警察当局の権限も大幅に強化される。
起訴前の被疑者を48時間から最大16日間まで拘留することが可能になり、弁護士接見を禁止できる規定も設けられた。

政府の恣意的な判断で法が動かされることは国安法と同じだった。
制定に踏み切った意図について、中国政府が再三要求してきた法令の実現で、「北京」への「忠誠心」をようやく示すことができたという見方もある。


香港基本法は27条に「香港の住民は、言論、報道、出版の自由、結社、集会、行進、デモの自由、労働組合を組織しこれに参加し、ストライキを行う権利と自由を享有する」と明記する。
23条との整合性をどのように捉えていくのか。
そのような視点を問う議会もメディアも、すでにない。


5月30日、香港高等法院(高裁)は立法会元議員ら民主派47人が政権転覆を謀ったとして国安法違反に問われた裁判で14人に有罪判決を言い渡した。

20年の立法会選挙で過半数獲得後に予算案否決などで行政長官に辞任を迫る計画が実現した場合は憲法上の危機をもたらすとした。

判決から半月後、終審法院(最高裁)の非常任裁判官を辞任した直後の英国籍のJ・サンプション氏が英フィナンシャル・タイムズ紙に寄稿、「立法会は政府にとって好ましくない目的のために憲法上の権利を行使ができないことになる」と批判する。


香港の司法制度は現在も形の上では英国植民地時代のコモンローに則って行われている。

政治、経済、社会、文化などあらゆる分野での権利義務が明確なことが、国際社会での香港の立場を支え、発展させてきた。

市民生活の一つ一つも法の下で担保されてきた。
香港でマンションの一室を借りたとき、弁護士立ち合いの元で分厚い契約書にサインしたことがあった。

たった一部屋にこれだけの書類が必要なのかと思い、日々の暮らしの根底には平等な法整備があると実感した。
「法の支配」はいま、なし崩し的に瓦解しつつある。



6月4日の香港島・ビクトリア公園での天安門事件犠牲者追悼キャンドル集会は20年に当局の集会禁止を無視する形で開かれたのが最後だ。

24年のこの日、公園では中国本土の物産展が開かれ、周囲には民主派の動きを警戒する警官の姿があった。

前日夜から事件の日を示す「8964」を手で描いたとして数人が逮捕された。

直前にはSNSに事件を追悼する内容を書き込んだとして「香港市民支援愛国民主運動連合会(支連会)」の鄒幸彤元副主席ら7人が国安法違反の疑いで逮捕されている。
支連会は3年前に解散に追い込まれた。


国安法施行から6月30日でまる4年が過ぎ、翌7月1日には返還記念式典が滞りなく行われた。

沈黙を強いられる社会にあって人々は何を拠り所にするのか。
メディア出身者らが小さな書店を立ち上げ、中国本土では禁止されている天安門事件などの書籍を扱っていると聞く。
耐えて営業を続けてほしいと思う。

 

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