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アジア新風土記(96) 九份の町
著者紹介 津田 邦宏(つだ・くにひろ) 1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。 |
九份の町
久し振りの九份の町は相変わらずの賑わいを見せていた。
道幅5メートルもあるかないかの基山街(九份旧道)の両側に並んだ店、店が訪れた人たちを誘っていた。2024年秋は約10年ぶりの再訪だった。
九份へのバスは台湾北部の港町、基隆から海岸沿いの道をしばらく進み、やがて基隆山の山間に入っていく。ほどなく山の中腹にしがみつくように家々が見えてくる。約40分の道程だ。秋の日差しはまだ肌にじわっと汗を滲ませる。冬の北東季節風が吹きつける厳しい時期には少し間があった。
基山街の入口
パス道の一角に基山街の入口がぽっかりと口を開けている。通りは天井を屋根で覆われ、昼間でも灯りのなかに続いていた。牛肉麺を出す食堂があった。
魚丸(魚をミンチした団子)を売る店があった。台湾茶、駄菓子、花生捲(ピーナッツ入りクレープ)の店があった。
食べ物屋が圧倒的に多い。以前はもっと台湾物産の店があった気がする。しばらく歩くうちに時間の感覚が次第に薄れ、昼間か夜かの区別もつかなくなっていった。
基山街
基山街は山肌に添って曲がりくねり、左右の脇道は上りも下りどれもが急坂だ。100メートルもあるかと思うような階段が下っていく豎崎路は軒先に何本もの提灯を吊り下げた店が目につく。
軽食、喫茶などを出す茶藝店だ。昼間の九份と提灯のついた夜の町とではその醸し出す雰囲気が全く異なる。九份に魅力を感じる人は提灯のオレンジ色の灯りに包まれた町に少なからず惹かれていく。
「九份名物」は聞かなかったが・・・
深澳湾
基山街の一角にある茶藝店に入る。店の奥は見晴らしがよく、遠くに深澳湾が見えた。高山茶を注文すると店員が入れ方を教えてくれる。
台湾中部の梨山で採れる梨山茶の澄んだ味を楽しみながら山裾のゆったりとした柔らかな景色を見ていると、ここがかつて一攫千金に賭けた人たちの金山の町だったことを忘れてしまいそうだった。
九份の町は19世紀末の金鉱脈の発見によって生まれた。
1890年、九份近くを源流とする基隆河で偶然砂金が発見される。金鉱脈探しが始まり、3年後に九份で、94年にはさらに山懐の金瓜石で金鉱が発見される。この年、日清戦争が勃発した。
下関条約で台湾を領有した明治政府は金鉱採掘禁止令と鉱業管理規則を発布して日本企業に採掘権を与え、本格的な金鉱採掘に乗り出した。最盛期には年間5トンの金を産出した二つの鉱山は日本の敗戦後も九份は1971年、金瓜石は87年まで採掘が続いた。
金鉱発見の270年ほど前の17世紀初め、フィリピンから台湾東海岸を北上してきたスペインの帆船が基隆の湾口にある社寮島(和平島)に砦を築く。
台湾海峡の制海権をオランダに握られ、中国に代わって日本との交易を目指した駐屯地だ。狙いはしかし、日本の鎖国政策によって頓挫、台湾撤退を余儀なくされる。
スペイン帆船は先住民の金のアクセサリーなどに気づき金鉱探しを試みたが、見つけることはできなかった。基隆に辿り着いた後も周辺での鉱脈探しの痕跡はない。基隆河は名前こそ「基隆」だが、基隆湾には注いではいない。基隆河と基隆湾は山々によって遮られ、流れはやがて台北市内で淡水河に合流する。スペイン人部隊が基隆を中心に本格的な植民地経営に着手していれば、山を越えて基隆河沿いの金鉱脈を容易に発見していたかもしれない。台湾の歴史も大きく変わったはずだ。
『風を聴く 九份』『雨が舞う 金瓜石』という二つのドキュメンタリー映画をつくった林雅行監督によると、九份は小さな鉱脈が無数にあり、採掘業者らが山のオーナーに坑道の賃料を払うシステムだった。金脈を掘り当てれば大金を手にするが、見つけられなければ借料だけが残るというギャンブルだった。
町は大金目当ての男たちが集まり、飲食店、女郎屋などが建ち並んだ。金瓜石は日本企業による機械掘りで、社宅、病院なども整備されていった。(『雨が舞う 金瓜石』パンフレット)
二つの町とも閉鉱後は寂れる一方だった。
九份茶坊のオーナーである画家の洪志勝さんは
「人影もまばらで老人、子供、犬と猫しか見かけませんでした。若者がいなかったんです。街全体が幻のようでした。見放されてしまったようなそんな街でした」
と語る。(2024年12月7日、テレビ東京『新美の巨人たち』)
「見放されてしまった街」は「228事件」前後を描いた侯孝賢監督の『悲情城市』のロケ地になる。撮影の開始は38年間続いた戒厳令が解除された翌年の1988年だった。
中国国民党・国民政府が47年2月28日から台湾の人たちを弾圧、虐殺していった事件は、事実そのものが隠蔽されていた。結社の合法化など社会の変革が進んでいったものの、政権がタブーとしてきた事件が容認されるかはわからなかった。映画は台湾で大成功を収め、ヴェネチア国際映画祭のグランプリを受賞する。洪さんも91年に九份茶坊を開き、通りに食堂、土産屋が次々にオープンした。映画で知名度が上がったことと相まって、町は観光の町として脚光を浴びていった。
九份がロケ地に選ばれた理由は何だったのか。侯監督は当初、基隆を舞台にした密輸物語の映画化を考えていた。様々な規制が緩み、語られることのなかった事件を描く気持ちになったという。最初の構想時にロケハンは終わっていたということだろうか。
九份も金瓜石も事件当時に虐殺事件が起きたという話は伝わってきていない。事件との繋がりは悲情城市のロケ地ということだけだ。映画では酒楼になった豎崎路の茶藝店は商店街の中に埋没していた。金瓜石で病院として撮影された鉱山医院はすでに取り壊されている。事件と映画に心を預けることは、いまの佇まいからは難しかった。
それでもどこかに、と思う。自由な風が吹き始めた社会で事件を現代史の表舞台に登場させようとした人々の熱気を感じたかった。募る思いはより欲深くなっていき、遠い時代の町に溢れていたはずの男たち、女たちの怒声、嬌声を聞きたかった。
夕方、明かりがともり始める
提灯の灯りは町を変えていく
人通りが少なっていく
九份のほとんどの店が一日の商いを終え、通りから賑わいがすべて消え、提灯の灯りもすべて消え、人々の息遣いさえも消えようとしていた町を歩いた。「観光地・九份」は闇の中にすっぽりと消えていた。