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アジア新風土記(72)台北・南京西路の228記念碑
著者紹介 津田 邦宏(つだ・くにひろ) 1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。 |
台北の西を南北に流れる淡水河から台北駅にかけての界隈は古びたビルが立ち並び、
昔ながらの佇まいを残している。
「台北101」に象徴される東に発展する街の勢いに抗うようにレンガ造りの街並みが続く。
間口が狭くても京の町家に似て奥行は深く、その一隅にはあたかも老店主があたりを睥睨しているような雰囲気を醸し出している。
淡水河を遡ってきたジャンク(帆掛け船)から大陸の陶器、茶、雑貨が荷揚げされ、代わって台湾の米、樟脳などが積み込まれた大稲埕の湊から迪化街の問屋街を抜けると南京西路にぶつかる。
日本の植民地時代から台湾人が多く暮らしていた通りはいま、その一角に「二二八事件引爆地」という小さな碑を残す。
228事件の発端となった現場だ。
1947年2月27日夕、ヤミたばこを売っていた女性が大陸出身の官吏に
すべてを没収され、殴打された。
警察当局が抗議の群衆に発砲、一人が死んだ。
南京西路の228記念碑
台湾は日本の敗戦後、中国の国民政府・国民党の管轄下に入り、役人、軍人、
大陸の実業家らが諸々の権利を独占、台湾人の不満、不平は募っていた。
28日、抗議行動が全島に広がり、台湾省政府は大陸に応援部隊を要請する
。
1週間後、省政府・軍は治安維持の名目で弁護士、教師、ジャーナリスト、
学生らの検挙に乗り出し、虐殺を繰り返した。
死者は1万8000人から2万8000人に上るとみられる。
全容はいまだ明らかになっていない。
228事件(台湾大学生会主催「This Land Is Your Land 展より」
米国副総領事として台北にいたジョージ・H・カーは、国民党軍による殺戮を
つぶさに目撃、『裏切られた台湾』(蕭成美訳、同時代社、2006年)に書く。
その夜(大陸から国民党軍の応援部隊が基隆に上陸した3月8日の夜=筆者注)、我々が夕食の後、友人と基隆から伝わって来る話の恐ろしい意味を語り合っていた折、突然、夜の静けさを破って銃声が聞こえて来た。(中略)ものの数分も経たないうちに国民党軍のトラックがゆっくりと道に沿って我々の家の前を動いて行った。そしてその連中の所から機関銃弾の雨が暗闇の中をあらゆる方向に飛んで行った |
日曜日(9日=同)の朝は明け、(中略)我々は二階の窓(避難先の病院の窓=同)から、向かいの路地で射撃している国民党軍兵士の行動を観察した。我々は台湾人が理由もなく銃剣に刺されているのを見た。そして我々の眼の前で、一人の男が略奪され、切られ、突き刺されるのを見た。もう一人の男は、家から兵隊に拉致されて行く少女を追いかけて街路に飛び出したところを切り倒された |
記念碑が建立されたのは1998年だった。
すでに南京西路に溶け込んで一つの風景となっていた。
道行く人もほとんど気にかけない小さな碑に足を止める。
碑文を追っていくほどに、人々の息遣い、怒号、悲鳴が、
辺り一帯の隅々から伝わってくるようだった。
風は少し生臭かった。そう感じただけかもしれない。
何の変哲もない平凡な通りは過去の記憶をすっぽりと仕舞い込み、
時々の集会にそっと顔を覗かせる。
記念碑前で2014年2月28日、追悼の気持ちを新たにする集まりがあった。
魷魚糜(スルメイカ入り粥)が100台湾ドルの出店があった。
逮捕された夫の好物のイカ粥を作って待ち続けた妻がいたことを、
だれもが知っていた。
その話を聞いた後のイカ粥は、淡水の港町で食べたものとは全く別の味がした。
事件は長くその存在が否定されていた。
台湾省政府は事件の渦中に出した戒厳令を一度は解除したものの、
1949年5月、政情不安の中で再び布告する。
12月には国共内戦で敗れた国民政府の蒋介石主席が重慶から台北に逃れ、
「大陸反攻」の根拠地とした。
治安の安定は最も重要かつ最優先の政策となる。
以後、87年までの38年の間、戒厳令が解かれることはなかった。
国民党軍による台湾人虐殺を白日の下にさらす社会ではなかった。
92年2月24日夜、台北の中正紀念堂・音楽廳に事件の犠牲者たちの遺族ら
40人が集まっていた。
遺族らを前に当時の李登輝総統は
「事件は様々な代価を払った時代の悲劇だった。歴史的な運命だが、反省し、さらに真相を究明していかなければならない。記念碑を建て、これまでのうらみを消して未来への出発点としたい」と挨拶した。
遺族一人ひとりの手を握り、弔意を表した。
台湾政府のトップであり、事件を引き起こした国民党の主席が初めて公式に
その事実と当局の責任を認めた夜だった。
音楽廳前の広場から東に蒋介石の業績を讃える中正紀念堂がある。
青の八角形の瓦屋根が一際目につく。
行政院(内閣)の「二二八事件研究委員会」報告書は、蒋介石は最初は鎮圧の必要を認めなかったが台湾省側の派兵要求などの情報から暴乱と判断した、とした。
具体的な責任はいまも曖昧のままだ。
事件の記念碑は89年に有志で建立された嘉義市の二二八記念碑はじめ北部の港町基隆から最南端の屏東県まで27か所になる。
嘉義市の二二八平和公園記念碑。パイワン族の竹ハーモニカをモチーフとしている。
1992年2月28日、屏東市に公的なものとしては台湾初の記念碑が立った。
三角錐は事件はまで氷山の一角であることを表現する。
2024年の2月28日にも各地で追悼の集会、慰霊祭が行われた。
嘉義県の追悼式典では蔡英文総統が
「台湾の歴史の痕跡の傷を癒すためには原因を知る必要がある」
「過去と誠実に向き合うことで初めて台湾の民主主義をさらに深め、進化させられる」
と語りかけた。
李元総統が正式に事件を謝罪したときは35歳になっていた。
多感な時代を戒厳令下で過ごした彼女はどのような感慨をもって総統としては最後の追悼式典に臨んだのだろうか
思いの一端をこの日の中正紀念堂休館にみる。
総統は17年、2月28日は休館日とすることを決定する。
国民政府・国民党軍の領袖である蒋介石の記念館を開くことを良しとしない強い意思があったのではないか。
台湾の人たちの怒りが封印された事件に、1989年6月4日の北京・天安門事件を思う。
中国政府は暴乱があったとするだけで、公に語られることはほとんどなくなった。
中国軍の武力行使、死傷者数などの究明、責任の追及は徹底的に抑え込まれている。
香港に天安門事件記念館があったとき、入館して初めて事件を知った大陸の若者がいたと聞く。
中国は天安門事件から35年しか経っていない。
中国が中国軍による学生らへの発砲、殺戮を認めるまでにはまだまだ歳月が足りないのだろうか。
その日は来るのか。