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アジア新風土記(83) バングラ騒乱
著者紹介 津田 邦宏(つだ・くにひろ) 1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。 |
バングラデシュで2024年7月、学生らを中心とする反政府デモが拡大、1月の総選挙で圧勝した与党アワミ連盟(AL)のシェイク・ハシナ首相が8月5日、突然インドに脱出する事態になった。
ハシナ・バングラデシュ首相、通算5期目へ 総選挙で与党勝利
— AFPBB News (@afpbbcom) January 8, 2024
バングラデシュで7日、総選挙が投開票され、シェイク・ハシナ・ワゼド首相(76)率いる与党・アワミ連盟(AL)が勝利し、ハシナ氏の通算5期目入りが確実となった。
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政権崩壊を受けてシャハブディン大統領は国軍のほか、野党、学生団体などの幹部らと協議、貧困層への無担保小口融資で知られる「グラミン銀行」創設者ムハマド・ユヌス氏(84)を最高顧問とする暫定政権が8日に発足した。
ユヌス最高顧問は宣誓式で「独裁政権は終わった。民主主義、人権、表現の自由が党派に関係なく享受されることが目標だ」と語った。
政権にはデモを主導した学生リーダー2人に人権活動家、イスラム学者らも入った。
暫定政権が新しい国造りに向けた道筋をつけられるかはわからない。
ユヌス氏はノーベル平和賞受賞者としての知名度はあるが、政治経験は乏しい。
スムーズな政権運営には不安も残る。
ハシナ氏の長年のライバル、野党バングラデシュ民族主義党(BNP)のカレダ・ジア党首は態度を明確にしていない。
事態収拾に乗り出した国軍も速やかに引き下がるかどうか。
AL関係者、国民の約1割といわれる少数派ヒンドゥー教徒らへの襲撃事件が各地で相次ぎ、治安の回復にはまだしばらくかかりそうだ。
学生らの反政府デモのきっかけは1971年のパキスタンからの独立戦争に従軍した兵士の家族らに公務員採用枠の3割を充てる優遇制度にあった。
大卒者らの就職が困難なときに、人気が高く安定した生活が保障されている公務員の特別採用枠には人々の不満、不平が募っていた。
ハシナ政権は2018年に制度撤廃を決めたが、具体的な動きはなかった。
24年6月、高等裁判所がこの決定を違憲とする判断を示したことで、学生らの怒りが爆発した。
バングラの司法が政府から独立した存在として機能しているとは言い難いだけに、高裁判断は首相らの意向と受け止められた。
こうした判断がなぜ示されたのか。それなりの理由があったはずだが、詳細な経緯は不明だ。
学生たちのデモはBNPを中心とした野党勢力なども加わって一気に反政府運動へと変わっていった。
政府は国軍、警察に特殊部隊を投入、実弾を用いるなど強硬手段で鎮圧に乗り出す。
7月21日には最高裁が特別採用枠の5パーセント縮小を表明、一端は鎮静化の方向に向かったが、8月4日に事態は急変した。
学生らと警察部隊が再び衝突、デモ隊への発砲で少なくとも95人以上が死亡、負傷者は1000人以上という。
現地メディアは7月からの死者は300人を超えたと報じる。
ハシナ政権は4日夜、無期限の外出禁止令を発令したものの、首相退陣を求める市民らは5日朝から首都ダッカの中心部に溢れ、一部は首相公邸に乱入した。
バングラは独立4年後の1975年、軍事クーデターによってムジブル・ラーマン初代大統領が暗殺されてから軍事政権が続いたが、90年の民主化運動によって総選挙が実現、ALとBNPの二大政党が政権交代を繰り返してきた。
ハシナ首相はラーマン初代大統領の長女。大統領はじめ一族の多くが国軍に殺害されたときは当時の西ドイツに滞在していて難を逃れた。
81年、AL総裁就任とともに帰国、96年に初めて首相に就任する。
一時下野したが、2009年に返り咲き、24年1月の総選挙を経て首相任期連続4期目に入っていた。
政権が長期化するとともにBNPのジア党首、幹部のほか支持者らを拘束するなど強権的な姿勢が強まっていき、総選挙もBNPがボイコットを表明して対抗勢力不在の選挙となった。
公平性を批判する有権者は少なくなく、投票率は約40パーセントと前回総選挙から半減した。
バングラはハシナ政権下、順調な経済成長を続けてきた。
中国での経済不安、労働者賃金の上昇などに見切りをつけた海外企業が新たな生産工場として着目、日本企業もユニクロはじめ300社以上が進出している。世界銀行によると23年の経済成長率は5・8パーセントに達し、1人当たりGDPの2731ドル(22/23年度)はインドの2379ドル(22年)を上回るまでになった。
ただ、経済成長を支えてきたのは海外資本の縫製工場などが中心で大卒者らの受け皿となる企業の発展は脆弱だった。
23年の政府統計では大卒者の失業率が12パーセントにもなった。
「開発独裁」という言葉を思い出す。
発展途上国にとって国の発展には強力なリーダーシップの元に社会の安定、治安維持が必要という考え方は、インドネシア・スハルト大統領の独裁体制がその典型だった。
ハシナ首相の強権政治はスハルトほど権力の誇示はなかったとしても、人々の人権、福祉などを抑えても経済発展を追った政権運営があったのでないか。
首相のあっけないほどの退陣にスハルト政権崩壊時の状況が重なってみえた。(『アジア新風土記53』参照)
バングラはベンガル語で「ベンガル人の国」を意味する。
英領植民地時代、ガンジス川などがもたらした肥沃な大地はコメ、ジュートの大生産地になり「黄金のベンガル」ともいわれた。
独立後は近代化に立ち遅れ、人々の貧しさ、社会の格差が際立つ国の一つになっていた。
貧者と富者の違いとはどういうことか。
ダッカに駐在した知人が垣間見た経験を話してくれたことがあった。
知人のマンション近くで富裕層の結婚式があったときだ。
邸宅は「ビレッジ」と呼ばれるエリア内にあり、ゲートからはイルミネーションが飾られていた。
ビレッジ外の空き地には何十頭の山羊、何十羽の鶏が繋がれ、料理人もまた十人を超えていた。
披露宴の料理は近くに住む人たちにも施され、次から次と人の列が続いた。
パーティーの音楽は夜通し鳴り響いた。
騒ぎはまる2日間続き、山羊、鶏の鳴き声が収まってようやく静けさが戻ったという。
サイクローン取材でかつてバングラを訪れた時、ホテルの一室から見下ろす風景は、スラムほどではないにしても貧しい人たちの生活があった。
その光景は様変わりしているだろうが、貧しい国の貧しい人たちの暮らしは、いまも大きく変わっていないのではないか。
ダッカからは市民らの歓喜の声が伝わってくる。
自由に飢えていた人たちの心が落ち着いたとき、その先に何が見えてくるのだろうか。