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アジア新風土記(94) 香港・九龍城の記憶
著者紹介 津田 邦宏(つだ・くにひろ) 1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。 |
2025年1月、日本で香港映画『トワイライト・ウォリアーズ 決戦!九龍城砦』が封切られた。違法家屋の無秩序な建て増しで城砦のようになった「九龍城」を舞台に、そこの住民と黒社会との暗闘を描いた作品だ。
時代はベトナム戦争が終わって難民が「ボートピープル」として香港から米国などへの移住を目指したころ。
一人のベトナムからの密航青年が九龍城に潜り込み、生きる場を見つけるが、香港人の父親がかつての抗争事件に係わっていたことがわかり、二つの世代に跨るせめぎ合いが始まる。
香港政庁の住民への立ち退き料をめぐる利権争いも加わって、エキサイティングな武闘が続いた。
九龍城
香港・九龍半島南部に位置する九龍城の一帯は中国・清朝時代の砦だった。
アヘン戦争で香港島と半島先端部を領有した英国は1898年、九龍城を含む新界地区を租借する。
砦を清朝の支配下に置く約束を反故にしたものの、治安対策はなきに等しかった。
清朝も立ち入らず、一帯は英国・香港政庁と中国の管轄から外れた地域となる。
砦の城壁は太平洋戦争で香港を占領した日本軍が空港拡張工事のために破壊した。
戦後は国共内戦、文化大革命などの混乱の度に大陸からの密航者で溢れていった。
広東省・深圳から境界の鉄条網を潜り抜けて、あるいは后海湾を泳いで辿り着いた人たちがほとんどだった。
「無法地帯」「魔境」ともいわれたが、麻薬、売春などが当たり前の「巣窟」から次第に難民らの生き残りの場へと変わり、小さな「共同体」としてのルールも生まれたという。
難民らは生きる力を取り戻してこの城砦を出ていき、一度出たならば再び戻ることのない城砦でもあった。
香港政庁は再三にわたって区画整理を計画するが、中国が帰属権を主張してその都度頓挫する。
1997年の香港返還が決まると、周辺のバラックが取り除かれ、最後は約200メートル四方に高さ30メートルのコンクリートの城砦だけが残った。
取り壊しは93年から翌年にかけて続く。
住民らが解体反対のデモを繰り返していたとき、この城砦に入ったことがある。
暗く細く路地とも言えないほどの路地が奥へ奥へと続いていき、裸電球と電線、配管が頭上に何本となく繋がって伸びていた。水道管からはポタ、ポタと水が落ちていた。
角を曲がると小さな廟があり、市内の飲食店などに卸す饅頭をつくっている店があり、飴を一つ一つ包装する人たちがいた。
散髪屋、美容院に、香港の免許をもたない医者が開く医院は「牙科」の看板を掲げた歯医者が目についた。
静まり返った先に微かに二胡の音が響いてくる。
その音に導かれるように足を運んでいくと熱心に練習する人に出会ったりした。
アパートのような小部屋がいくつもあり、人々のやり取りが聞こえてくる。太陽の光が入ってこない「地下社会」のような空間に、必死に生きる人たちに、つかの間のときを楽しむ人たちがいた。
階段を上へ上へと登って屋上に出る。
空が一挙に広がって伸びやかだった。南にビクトリア港、香港島が見える。
九龍城に暮らす人たちは時にはこの屋上まで足を運び、思い切り空気を吸っていたのだろうか。
そんなことを思う間もなく、頭の真上を巨大な飛行機が横切っていく。
城砦はビクトリア港に滑走路が一本突き出た啓徳空港への進入路にあたっていた。
ぶつかるのではないかと緊張するが、数分おきに飛来する機体はなにごともなく滑走路に滑り込んでいった。
鄭保瑞(ソイ・チェン)監督は11歳のころにマカオから香港に移り住み、小学校が城砦近くにあったという。
映画紹介パンフレットに
「怖い、不潔というイメージが根強く、人々は基本的には近寄ろうとしませんでした。実際、妹が一度城砦内の歯医者に行こうとしたことがありましたが、家族全員が躊躇し、結局取りやめたことを覚えています」
と語っている。
映画は2024年5月に公開され、製作者らの予想を超えるヒットになった。
新旧スターらが伝統でもあるアクションを精緻な「九龍城」で繰り広げたことが人気になったのは確かだ。それだけだろうか。
アクション映画がこれまでなかったわけではなく、大掛かりなセットによる再現も珍しくはないともいえる。
九龍城の佇まいが郷愁を誘ったということなのか。
映画のシーンにある網の目のように張り巡らされた電線、テレビの前の団らん、饅頭屋、食卓の叉焼飯、魚蛋(魚のすり身団子)、あたりに散らばるアダルトビデオ、一際輝く天后廟、そして路地を子供たちが走り回る情景は、どれもがほんの少し前までは香港の裏通りによく見かけた風景だ。
鄭監督は
「特に印象的だったのは、たくさんの高齢者や親たちが子どもを連れて映画館に足を運んでくれたことです。アクション映画でありながら、『これがかつての香港の姿だ』と次世代に伝えたいという思いが、家族連れの観客を動かしたのでしょう」
と話す。(同パンフレット)
香港の人たちは2時間5分のストーリーを追いながら、スターらの破天荒な活躍に元気をもらい、自由に生きる人たちに魅了されていったのではないか。
街のすべてがアクション映画の「現場」になったかつての香港と、思いやりに溢れた大らかな社会、融通無碍で奔放な社会に思いをはせる。
そこに香港人を惹きつけた答えがあるような気がする。
香港の古い街並みはいま、次々と取り壊され、代わって機能的なビルが林立していく。
九龍城跡は普通の九龍寨城公園になり、啓徳空港は香港返還直後に閉鎖された。
香港島・中環(セントラル)の植民地時代からのスターフェリー波止場も瀟洒な建物に変わって久しい。
社会は閉塞感に包まれ、友人らとの携帯のやりとりも「反政府活動」としていつ密告されるかもわからないような世の中になった。
映画は黒社会との戦いに勝った若者たちが城砦の一角に立ち、九龍城がなくなったとしても、それでも「変わらないものもあるはずだ」という言葉で終わる。
香港の「変わらないもの」とはなにか。
ラストシーンを見た人たちはその言葉にそれぞれの思いを託して、映画館を後にしたのかもしれない。