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アジア新風土記(90)マラッカ王国と琉球王国
著者紹介 津田 邦宏(つだ・くにひろ) 1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。 |
大佛次郎の小説『帰郷』の書き出しは、第二次大戦中のマラッカだった。
「一時間ばかり前に、強いスコールが過ぎて行った後で、くすんだ赤瓦に白壁の多いマラッカの町は、繁る熱帯の樹樹とともに、洗い出されたように目に鮮やかな色彩を一面に燃え立たせていた」そして軍属としてマラッカを訪れた画家の思いとして
「このマラッカの町は以前に訪ねた時から気に入っていた。色が複雑だし、静かな環境で、それも、過ぎた歴史の影が、土にも木にも滲み込んでいるような気配が、文学書なども読むのが好きだった彼に、暫くでも戦争を忘れさせてくれるのだった」と書く。(『大佛次郎 新潮日本文学25』所収、新潮社、1972年)
「過ぎた歴史の影が、土にも木にも滲み込んでいる」地に、光彩を放ったのは
琉球の人たちだった。活躍の時代は15世紀のマラッカ王国最盛期に重なる。
(『アジア新風土記89』参照)
1429年に興った琉球王国はアジアの国々との海上貿易によって繁栄の礎とした。
琉球の硫黄、中国の磁器、生糸、銅銭などに加えて日本の刀剣、漆器などが
海を渡り、代わってアジアからは織物、コショウ、ナツメグ、サンゴなどが
入ってきた。琉球船は中国で建造される。
背景には中国・明朝の海禁政策があり、他国との貿易を禁じたことで、
朝貢国の琉球はベトナムの安南、タイのアユタヤなどとの交易を一手に
引き受けることになった。
琉球王国とその30年ほど前に生まれたマラッカ王国との交流は1511年に
ポルトガルがマラッカを占拠するまで続く。
琉球王国も明朝が1567年に海禁政策廃止を決定したことで中継貿易の
独占的な利益を失う。
1609年に薩摩・鹿児島藩の侵攻を受けて支配下に入らざるを得なかった
理由の一端も、国勢の衰えにあるのかもしれない。
『東方諸国記』(『大航海時代叢書Ⅴ』トメ・ピレス、生田滋ら訳、岩波書店、1966年)は、マラッカを訪れた琉球人を「レケオ人」と表現する。訳注は琉球の対音としている。「レキオ人」と書いたところもある。
「レケオ[琉球]人はゴーレスと呼ばれる。(中略)かれらはシナとマラカ(マラッカ=筆者注)で取引を行なう。(中略)かれらは正直な人間で、奴隷を買わないし、たとえ全世界とひきかえでも自分たちの同胞を売るようなことはしない。かれらはこれについては死を賭ける」琉球王国の尚巴志王代の1424年から尚泰王代の1867年までの444年間に渡って漢文で書かれた外交文書『歴代宝案』はマラッカとの関係を克明に記録する。
宝案には琉球王からマラッカ王に宛てた親書が13通、マラッカ王から琉球王に6通確認されている。
琉球王の親書で最初にマラッカの名前が出てくるのは1463年の「琉球国王、満刺加(マラッカ=筆者注)国王殿下に咨(し)す」で始まる親書だ。
マラッカからの使節を受け、感謝するとともに両国の交流、交易が滞りなく行われることを願った文面である。
磁器、刀剣、扇子などが同時に送られた。マラッカ王からは4年後、返礼の親書が届く。
礼物はベンガル産の上質な綿織物だった。
琉球王の最後の親書は1511年9月4日の日付がある。琉球の産物が限られ、
磁器などを捌(さば)き、コショウ、蘇木(スオウ)などを購入したい旨が認(したた)められてある。
琉球船は決まって冬の北東モンスーンが吹くころに那覇を出港しており、
マラッカに着いたのは年末か翌年初めと推測できる。マ
ラッカは11年に滅亡している。
琉球船が到着した時に王国はなく、親書は届かなかったかもしれない。
宝案に正使馬彼比の帰国報告はない。
沖縄県教委の『新訂版 歴代宝案の栞』によれば、宝案は度々消滅の危機に見舞われる。
明治政府が1879年の「琉球処分」で沖縄県を設置すると、王府にあった歴代宝案は東京の内務省に移管されるが、関東大震災によって焼失した。
編集に携わった人たちが密かに保存していたいま一つの原本は旧沖縄県立図書館に保管され、副本も作成された。
大戦時の沖縄戦は疎開先で一部を残して散逸させる。
現存する最も分量の多い写本は台北帝大に保管されていた計249巻だ。
戦前、宝案を研究していた同大の小葉田敦助教授が旧沖縄県立図書館の副本から写本を作成していた。
この写本の「筆写」が沖縄に戻った経緯は敗戦後、台湾からの引揚げを待たされた沖縄の人たちの手記『琉球官兵顛末記』(台湾引揚記刊行期成会、1986年)から知る。
引揚げが遅れた理由には、米軍の沖縄を「琉球」として占領・統治するという思惑に日本政府は異を唱えず、沖縄県人を「琉球人」として扱ったことがあった。
(『沖縄処分 台湾引揚者の悲哀』参照、津田邦宏、高文研、2019年)
台北州庁に勤務していた友寄景勝さんは『琉球官兵顛末記』の「いくさ世の台湾」という一文で、台湾沖縄同郷会連合会を立ち上げた川平朝申さんから台北帝大の歴代宝案の筆写を依頼されたと語る。
「琉球歴史の中でも、極めて貴重な文献だと教えられた時、その責任の重さに身の引き緊る(ママ)思いがした。(中略)然し沖縄引揚げまでの短期間でどれだけの筆写ができるか不安でもあった。一頁でも二頁でも多く、出来るだけ早く筆写しなければと思い指にペンダコができるほど書いた。(中略)大学側の了解を得て、川平さん宅に原本を借用し毎日、夜更けまで筆写を続けたのである。一日の筆写を終えて家路を急ぐ台北の夜はひっそりと静まり、ほとんど人通りはない。特に日本人は夜間外出は物騒なのでさけていた。街角の屋台で湯気の立つ『ワンタン』で腹ごしらえをし身体が温まってくると一日の疲れがほぐれるような気がした」
台北の大学に写本が保管されている以上、社会が落ち着けばいつでも筆写できたはずと言うことは容易い。
しかし、敗戦直後の台湾にいた人たちは沖縄の本がなくなったことを知って「何としても」という気持ちに駆られたことだろう。
いつ故郷に帰れるかもわからない状況下でなお、沖縄の文化を守りたいという思いを想像した。