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アジア新風土記(79) インドのヒンドゥー至上主義
著者紹介 津田 邦宏(つだ・くにひろ) 1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。 |
5年に1度のインド総選挙(下院、定数543)は2024年4月19日から6月1日まで7回に分けて投票が行われ、6月4日に同時開票された。
ナレンドラ・モディ首相のインド人民党(BJP)などの与党連合が293議席を確保して辛うじて過半数を維持したものの、人民党は240議席(前回303議席)にとどまった。
野党側は国民会議派が99議席(前回52議席)を獲得、共闘した地域政党などと合わせて234議席となった。
インド総選挙、与党が単独過半数割れ モディ氏は続投を宣言https://t.co/q4vTLKxwZr
— 毎日新聞 (@mainichi) June 4, 2024
躍進した最大野党・国民会議派のカルゲ総裁は「国民はモディ氏に負託を与えなかった。彼の政治的な敗北だ」と語りました。
有権者9億6880万人の大選挙は首相の求心力を大きく低下させる結果となった。
ヒンドゥー至上主義による宗教対立を良しとしない人たち、格差是正を訴える農民らの貧しい人たち、雇用の機会を求める人たちの政権批判が選挙前の「圧勝」予想を覆した。
苦い勝利となった要因の一つであるヒンドゥー至上主義はインドの姿を変えかねない「危険性」を内包する。
遊説でイスラム教徒を「侵略者」と公言する首相に変化は起こるのか。
ヒンドゥー教の規範に沿った国政をさらに展開していくのか。
モディ首相のインド、ヒンドゥー至上主義とは何か。
1947年の独立後に生まれた初めての宰相は73歳。
西部グジャラート州政府首相を務め、2014年の総選挙で人民党を率いて勝利、首相の座に就いた。
人民党は極右的なヒンドゥー教団体、民族義勇団を有力な支持母体としており、首相も活動してきた。
民族義勇団は独立から半年後、崇拝者がガンジーを暗殺したことで知られる。
米誌『ニューズウィーク』のダニシュ・マンズール・バット・アジア地域編集ディレクターは首相と支持者らの考えを
「宗教的少数派に与えられてきた特権を取り上げるヒンドゥーナショナリズム的な政策は、不公正の是正にほかならない。ヒンドゥー教の国としてのインド本来の姿に立ち戻ることこそ、進歩と国民統合の鍵を握る」
と伝える。(日本版、24年5月21日号)
インドの人口は中国を追い越して14億4170万人になった。
人口世界一の国でヒンドゥー教徒は80%と圧倒的だが、イスラム教徒14%、キリスト教徒2.3%、シーク教徒1.7%、仏教徒0.7%と宗教を異にする人々は2億8000万人以上にもなる。
インドは多宗教、多民族の国であり、そのことを前提とした世界最大の民主主義国家だった。
独立以来の国家としての根幹はしかし、モディ政権になって揺らぎ始め、宗教の多様性が失われつつある。
24年1月22日、インド北部ウッタル・プラデーシュ州のアヨディヤでヒンドゥー教寺院の落慶式が行われた。
モディ首相は式典で「壮大な寺院は発展したインドの証人になるだろう」と述べる。
アヨディヤは釈迦の生まれた古代コーサラ国の首都だった。
叙事詩『ラーマーヤナ』の主人公、ラーマ王子の故地でもある。
この地にムガール王朝時代の16世紀に建てられたモスクは1992年、ヒンドゥー至上主義者によって破壊され、各地でイスラム、ヒンドゥー両教徒による衝突、暴動が発生、約2000人が死んだ。
領有権争いも勃発、インド最高裁は2019年11月、ヒンドゥー教の「聖地」と認める判決を下した。
モディ政権誕生から5年が経ち、彼のヒンドゥー至上主義に「国是」といった雰囲気が漂い出した時期に重なる。
最高裁の判断は政治的、社会的な潮流と無関係ではなかったのか。
判決から1か月後、インド近隣のパキスタン、バングラデシュ、アフガニスタンから14年末までにインドに逃れてきた難民らに市民権を与える市民権改正法が国会で可決、公布された。
ヒンドゥー教、シーク教、仏教、ジャイナ教、ゾロアスター教、キリスト教の各信者に限られ、最も多いとみられるイスラム教徒は除外された。
ミャンマーでイスラム教を信じる少数民族ロヒンギャ、スリランカの少数派ヒンドゥー教徒タミル人も含まれなかった。
イスラム教を差別するヒンドゥー至上主義に基づく法改正であり、宗教が異なることを理由とした差別は憲法の世俗的原則に反するといった批判が起こり、施行は頓挫していた。
総選挙直前の24年3月11日、政府は突然、各種規則などの整備が終わったとして改正法の施行を発表する。
意図、狙いはわからない。イスラム教徒、タミル人は排除されたままだ。
モディ首相はヒンドゥー教寺院の落慶式で「いまはインドの時代」と語った。
その自信は経済発展に負うところが大きい。
22年の実質GDPは約3兆3860億ドルで米国、中国、日本、ドイツに次ぐ。
世界銀行は23~24年度の実質GDP成長率を6.3%と予測する。
21年度の対インド外国直接投資(FDI)約850億ドルは00年度比で21倍にもなった。
IT産業、サービス業などの成長は中所得層以上の増加を促し、約470万台の新車販売台数は中国、米国に次いで3位だ。
首相は経済力を後ろ盾に国際社会でも存在感を見せる。
「グローバルサウス」と総称される新興国、発展途上国を主導して先進国に積極的に発言してきた。
しかし、過度のヒンドゥー至上主義によって「宗教国家」になることを危惧する国は少なくないのではないか。
経済発展から取り残される人たちの対策はどうなのか。
世界銀行によると1日に2.15米ドル以下で暮らす貧困層は全体の約10%、1億4000万人に上る。
人口の6割以上を占める農民の多くは貧しい暮らしを強いられ、24年2月には農作物の政府買取価格の引き上げを求める農民らのデモがニューデリーで警官隊と衝突する事件も発生した。
IT、サービス産業以外の製造業は伸び悩み、失業率8%前後の社会では雇用の機会は広がらない。
国際労働機関(ILO)の報告では大卒者の失業率は29.1%にもなる。(米ブルームバーグ、24年3月29日)
モディ首相は6月9日、南部アーンドラ・プラデーシュ州のテルグ・デサム党(16議席)、東部ビハール州のジャナタ・ダル統一派(12議席)などの地域政党と連立政権を発足させた。
IT産業の振興・育成などの経済政策、グローバルサウスのリーダーとしての外交政策には大きな変化はないとみられるが、宗教対立に貧困、失業対策などの国内問題は難題ばかりだ。
首相は過去10年、ヒンドゥー教徒の圧倒的な支持をバックに強引ともいえる政治手法で進んできた。
地域政党はヒンドゥー至上主義に立った諸々の政策にどこまで協力していくのか。
新政権のインドは先の見えない不透明な時代に入った。