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アジア新風土記(67)民主派ゼロの香港区議選
著者紹介 津田 邦宏(つだ・くにひろ) 1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。 |
2023年12月10日の香港区議会選挙は、民主派候補が一人もいないというこれまでの区議選とは大きく様変わりした中で行われ、親中派が議席の大半を占めた。
選挙制度が7月に改定され、直接選挙枠は452議席(全体の94%)から88議席(同18%)に減った上、民主派が立候補に必要な推薦人を確保できなかった結果だ。
直接選挙枠縮小に伴って新たに政府委任か政府選任者の互選による枠がつくられ、全体の4分の3にあたる355人の親中、親政府の議員が生まれた。
李家超行政長官は10日、今回の区議選を「愛国者による統治に必要なパズルの最後のピース」と語り、翌日には「愛国者による統治が全面的に完成した意義は大きい」と述べた。
投票率は過去最低の27.54%。前回の71.23%を大きく下回った。
投票当日の有権者の出足は鈍く、投票所に行列はほとんどなかった。
全投票所に警察官の姿だけが目立った。
民主派の動きはわずかに民主派政党関係者3人が選挙制度改定反対デモを計画したとして逮捕されたと報じられる。
民主派政党の一つ、民主党は6人の立候補を予定していたが、3地域の委員会から各3人の推薦を得た後、香港政府幹部らでつくる審査委員会による「愛国者による統治」を認めるかの審査を経なければならなかった。
地域委員会はほとんどが親中派委員で構成され、推薦へのハードルは高かった。立法会(議会)に親中派政党以外で唯一議席を持つ中間派の「新思維」も推薦を集められなかった。
区議会の選挙制度が大幅に改定された理由は19年の区議選で民主派が全議席の8割を超す385議席を獲得する大勝利を収めたことにある。
香港政府は4年前の再現を恐れ、直接選挙枠を前回の2割以下として、その可能性を払拭する。民主派の圧勝が諸々の政策に対する「NO」を突きつける形になるからだ。
香港政府は21年12月の立法会選挙と22年5月の行政長官選出選挙で、中国への忠誠を立候補の条件としたことで、親中派一色の立法会と李行政長官を実現させている。
市民の声を反映させる最後の砦でもある区議選での民主派締め出しで、香港の選挙はすべて「親中派による親中派の選挙」になった。
香港区議会は英国植民地時代の1982年に設立され、18の区議会がある。
予算の承認、条例制定といった日本の地方議会が持つような権限はないが、行政長官を選出する選挙委員会委員を兼ねる場合もあり、ある程度の影響力があるともいわれてきた。
区議会選挙をかつて取材した時、権限こそ限られていたが、立候補者と有権者との関係は日本の市議選、町議選などと同じだと感じた。
候補者はごみの処理、道路渋滞、地区の防犯体制など小さな選挙区の人たちが直面する様々な苦情、問題について話し合い、解決の糸口を見つけていった。
香港総督をトップとする英領植民地の時代であり、立法会の前身である立法評議会も総督の諮問機関の域を出なかった。ただ、民主的な議会の機能は少なからず果たせていたのではと思った。
地域社会の意見交換の場だった区議選は2019年、香港市民の民意を表明する場へと変質する。
この年11月の選挙は、逃亡犯条例改正案撤回を求める大規模デモなどの民主化運動の延長線上にあった。
これまで政治の世界には関心のなかった人たちが積極的に候補者として打って出た。
20年6月の香港国家安全維持法(国安法)施行以後はしかし、中国政府、香港政府に異を唱える動きはほとんど抑え込まれていく。
区議も例外ではなく、19年の選挙で当選した議員にはその後、政府への忠誠を求める「宣誓」が義務づけられ、応じなかった300人以上が辞職、失職した。
ドキュメンタリー制作者の江瓊珠氏は区議選を追って候補者へのインタビューを続けた。
雑誌『世界』(22年11月号、岩波書店)の「香港からの通信」に「逃亡犯条例改正反対運動が潰散(かいさん)しても、香港社会の抵抗勢力は完全には打ち負かされなかった。(中略)当選者の多くはまだ経験の浅いアマチュアの政治家だったが、誰もが希望に満ち、自信をもって未来に備えた」と書く。
希望と自信は1年も経たないうちに打ち砕かれる。
「家族全員で移住した者もいれば、越えてはならない一線がどこにあるのかわからず、しぶしぶ去った者もいる。残っているうちの一人、朱江瑋は、去ることを決して考えなかったと言う」「彼は小さな店を開いて日用品と『香港人の清酒(オンライン販売の清酒)』を販売した。(中略)朱江瑋は『場所があるからこそ人が集まる』と信じている」
逃亡犯条例改正に反対する運動が盛んだったころ、街には民主化を支持する「黄店」と呼ばれる店が目立った。
14年の雨傘運動でデモ参加者が黄色のかさを持って抗議したことにちなんだ色だ。
市民らはネットなどで黄店をチェック、買い物を続けた。
親中派の批判の中でのささやかな抵抗ともいえた。
朱さんの店など反政府の姿勢がはっきりとわかる店はどうなっているのだろうか。
香港の人たちがいま、口々に語るのは、返還後50年の高度な自治と自由な資本主義社会を保障した「一国二制度」ではなく、「一国一制度」という言葉だ。こうした表現を自ら使う人々の心の奥底を思う。
香港からは「深圳に行って香港ドルを思い切り使おう」という話が伝わってくる。
香港・新界地区と境界を接する広東省・深圳は改革開放政策によって発展した都市だ。
返還前、香港の人たちはこの街で安くて美味しい広東料理を堪能、スタイルブックを持ち込んでオーダーメイドの服を注文した。
商店主らは人民元の支払いを嫌い、だれもが香港ドルを欲しがった。
返還後は中国の経済力が伸びるともに、支払いはほとんどが中国元になった。
最近は香港ドルが再び力をつけてきた。中国経済が減速するにつれ、米ドルとのリンクで両替が容易なことから相対的に価値が上ってきている。
深圳に行って香港ドルで食事、ショッピングをするというかつての楽しみの復活に、去来するのは祭りの後の虚しさだろうか。