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アジア新風土記(52)ホウオウボク(鳳凰木)
著者紹介 津田 邦宏(つだ・くにひろ) 1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。 |
初夏のころのアジアは街の公園に、田舎の畔道に、そして山間の集落に日本ではほとんど見ることのない花々に出会える楽しさがある。
花を通してそこに住む人たちの暮らし、歴史に触れる喜びがある。
台湾の山々が緑濃くなってくると、深い樹林に所々、季節外れの雪が降ったのではと錯覚させるアブラギリ(油桐)の白い花が現れる。一日、一日と枝の先々に花をつけていき、次第に白い山肌へと変化させていく。花が散る時は花弁がくるくると回って落ちていく。台湾では「桐花」の名がつき、雪に馴染みのない人たちは「五月雪」と呼んで愛する風景だ。
アブラギリ(桐花)
アブラギリは台湾北西部から中西部にかけての山間部に多く生育する落葉高木で高さ20メートルを超す大木も珍しくない。種子を搾って油脂を採ることから付けられた名前だろうが、清楚な花は脂ぎったイメージには程遠く、台湾名の「桐花」の方が相応しかった。
客家(はっか)の人たちが戦前から戦後にかけて多く植樹してきた木々は、毒性を含む桐油が害虫、湿気除けに利用され、塗料にも加えられると聞いた。客家の多い台北、桃園、新竹などの県市では2002年から「桐花祭」が開催され、桐花の花見ロードを開設したり、客家料理を提供したりするなどのイベントが続いている。
客家は中国で秦の時代から戦乱を逃れて移動を始め、唐代の末には中原から南の福建、広東へ、清の時代は香港、台湾へと移り住んだといわれる。台湾政府客家委員会の22年の発表では台湾人口2400万の約2割にあたる470万人を占めている。
客家小菜は中西部の廃線となった苗栗旧山線を走る観光SL列車に乗ったとき、台湾鉄道最高地点だった勝興駅(海抜402.326m)の駅前食堂で経験した。細かく刻んだ豚肉、戻したイカ、ネギなどを炒めた料理に、山の中の素朴な味わいを感じた。
勝興駅
食堂の人と世間話をしたとき思い出したことに香港の客家村があった。新界地区にある錦田城門村(吉慶圍)は、四隅に望楼を配した高さ6メートルの壁で囲んだ小さな城塞だった。入口は一か所で狭かった。両側からレンガ壁が迫る細い通りに入っていくと左右は迷路のような路地が続いていた。
17世紀中頃に広東省から移ってきた鄧一族が建てたという。その頃には「土客械闘(とかくかいとう)」といわれる土着の人たちと客家の衝突が各地で起きていた。鄧氏も抗争から逃れてきたのだろうか。大陸の広大な地を北から南に転々としてきた人々が代々受け継いできた防衛的な発想を「城門村」にみる思いだった。
台湾の山間で会った客家の人たちの眼差しは優しかった。台湾でも福建人と客家の「械闘」はあったが、大陸と比べて人と人との激しいせめぎ合いは少なく、自ずと異なる感覚が育まれていったのかと感じた。
台湾北部の山々にアブラギリが満開のころ、南部はホウオウボク(鳳凰木)の赤い花で彩られる。赤と一言で表現しても、実際は真っ赤な花、緋色や朱色、オレンジに近い花と様々だ。マメ科の落葉樹で「カエンジュ(火炎樹)」の別名もある。枝をネムノキのように傘状に広げ、見上げると長いので50センチ以上にもなる細い葉が太陽の光を受け、無数の赤い花がさながら花の精と化して一際輝いている。
ホウオウボク(鳳凰木)
カエンジュにはほかにノウゼンカズラ科の常緑樹アフリカンチューリップがある。幹が上へと伸び、樹冠の外側につく花はチューリップのような形だ。台湾南部で冬に見たことがあるが、ホウオウボクのほうが繊細でしなやかさに勝っているようにも思う。
アフリカンチューリップ
台湾南部の山は山一つ谷一つ隔てて暮らす先住民の山でもある。1871(明治4)年、琉球・宮古島の役人らが首里王府への年貢を納めた帰りに遭難、台湾東南部に漂着後54人がパイワン族に殺害される。
3年後、日本軍は台湾に出兵、山中深く侵入してパイワン族と戦火を交える牡丹社事件を起こした。パイワン族は日本軍の圧倒的な武力に為す術なく、日本兵は戦闘に加え熱帯病で体力を失って倒れていった。戦いの最中にもホウオウボクは咲いていたのか。そのとき花々は血の色だったのか。
事件から140年後の2014年5月、戦場近くに記念公園ができる。公園への山道はホウオウボクが咲き誇り、開園式に臨んだ老女たちの民族衣装は燃えるような赤い花を連想させて鮮やかだった。
パイワン族の老女たち
ホウオウボクにはいくつかの記憶がある。その一つ一つは「抵抗」あるいは「自由」を想起させた。香港のホウオウボクは、香港島・ビクトリア公園で6月4日に開かれていた「天安門事件追悼集会」と民主化を訴えて行進する人たちに結びつく。彼らが集まり、歩くとき、どこかに必ずホウオウボクがあった。人々の動きを追いながら、赤い花はエネルギーを注入するために咲いているのではとさえ思った。
ミャンマーの首都ヤンゴンにはインヤー湖という大きな湖がある。湖畔のホテルに宿をとったとき、入口にあったホウオウボクの巨木は数えきれないほどの花をつけていた。同じ湖畔ではアウンサンスーチーさんが自宅軟禁中だった。民主化が実現して表舞台に立つ前だった。2021年2月の国軍クーデターによって「拘束」されたいま、ホウオウボクは時代の移り変わりをどのように眺めているのだろうか。
台湾の阿勃勒(あぼつろく)も忘れられない。3月の末ごろから咲き始める黄色の枝垂れ花は50センチを超すほどの房をつけ、上の方から五弁の花を次々に咲かせていく。風に揺れて花が自在に変化する様に惹かれ、いつまでも飽きなかった。
阿勃勒はゴールデンシャワーの英名を持つ。熱帯アジア原産の落葉樹で、タイでは「チャイヤ・プルク(勝利の樹)」「ラーチャ・プルク(王の樹)」と呼ばれる国花だ。ソンクラーン(旧正月)の季節になれば、どこでも目にすることができる。
阿勃勒(ゴールデンシャワー)
23年のソンクラーンは4月13日から3日間だった。15日の「元日」を前に、寺などの大掃除が行われ、仏像なども洗われる。元日には僧侶に供物を捧げ、魚、鳥を放って功徳を積む。正月の水かけ祭りは、仏像、年長者らの手に水をかけてお清めする行事だったが、いまでは人々がお互いに水をかけあう祭りになった。バンコクの特派員時代、ソンクラーンには出張が続いて縁がなかった。ゴールデンシャワーの花が水を浴びた人々に降り注ぐ中に、自分も入ってみたかった。