アジア新風土記(92)韓国大統領の「非常戒厳」




著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。





2024年12月、韓国社会は尹錫悦大統領の「非常戒厳」宣布によって突然、平時に戒厳令が布告されるという極めて異常、異様な事態に陥った。


3日夜、大統領は「自由憲政秩序を守る」として、非常戒厳を宣布、軍隊を国会などに展開させ、戒厳司令官は一切の政治活動を禁止し、メディアを統制する布告令を発布した。

しかし、国会議員の議場入りは阻止できず、非常戒厳は4日未明の解除要求決議で頓挫する。

14日には大統領の弾劾訴追案が国会で可決された。罷免の可否は憲法裁判所の弾劾審判に委ねられることになった。

大統領職務は韓悳洙首相が首相弾劾訴追を受け、崔相穆経済副首相兼企画財政相が担うことになった。




韓国最後の戒厳令は1979年10月の朴正熙大統領暗殺事件直後に敷かれた。

80年5月18日には戒厳軍が人々を弾圧した光州事件が起きた。

民主化の訴えは、学生、市民らが軍政を糾弾した87年6月の「民衆抗争」後の民主化宣言によって結実する。

国会で非常戒厳を阻止した与野党議員には軍事独裁に抵抗したり民主化運動に身を投じたりした人が多かったと聞いた。

弾劾訴追案可決を求めて国会周辺に集まった市民らの素早い行動もまた、戒厳令下の社会に何が起きるかを経験として知っていたことが大きかったという。



非常戒厳の稚拙さも目立った。

尹氏に進言したとされる金龍顕国防相は野戦に秀でた軍人
とみられていたが、布告令でメディアを統制するとしながら、放送局、新聞社などへの部隊派遣はなかった。

入念な準備を進めてきたとは思えない。



大統領の弾劾審判にあたる憲法裁判所は9人で構成され、6人以上の賛成で弾劾が認定される。


裁判官は現在8人、2025年春には2人が退官する。
憲法裁の判断が下されない限り、尹氏の地位も未確定のままだ。

尹氏側は非常戒厳の宣布は「統治行為」であり司法審査の対象にはならず、弾劾訴追そのものが違法との立場を示している。

しかし、選挙で国民の信任を得た指導者が騒乱とは無縁な社会に戒厳令を布告した事実に、いかなる大義名分も首肯されるものではない。




内乱罪での捜査も進む。

韓国憲法84条は現職大統領の刑事訴追を内乱罪と外国からの武力行使に加担した者への外患罪に限って認めており、高位公職者犯罪捜査処(公捜処)、警察などの合同捜査本部は1月3日、「内乱罪首謀容疑」で尹氏の身柄拘束を試みたが大統領公邸の大統領警護処が拒否、混乱を避けるため執行を断念した。


再執行されるかは不透明だ。

尹氏側は拘束令状を裁判所に請求した公捜処には内乱罪に関する捜査権限がないと反論する。
合同捜査本部が次のステップである逮捕令状請求に踏み切るかどうか。
予断は許さない局面が続く。



大統領が戒厳令を発した例に1972年の朴正熙大統領による「十月維新」がある。

大統領は61年に軍事クーデターによって実権を握り、11年後の「大統領特別宣言」によって大統領の重任制限撤廃と国会解散などを断行、独裁色を強めた。このときは軍事政権下であり、今回の尹大統領の非常戒厳とは自ずと社会的背景を異にする。





尹大統領の暴挙の真相はまだ不確かなところが多い。
指摘されているのは野党・共に民主党から政局の指導権を取り戻すためとの見方だ。

2024年4月の総選挙で大統領の与党・国民の力は大敗、議会過半数を制した共に民主党は政府の方針や施策に終始反対、官僚らの弾劾訴追を連発するなど、大統領の力を削いできた。
尹氏が総選挙の結果に強い不満を持っていたことは、一部の軍隊を中央選挙管理委員会に派遣したことでも推測できる。


大統領と議会が機能する政治体制の国では対立は往々にして起こり得る。
韓国でも民主化以後、少数与党の時代はあった。それでも戒厳令のような極端な手法がとられることはなかった。

「野党に過度の弾劾訴追あり」として民意に問うなどの方策はなかったのか。




非常戒厳に台湾の戒厳令解除後の政治状況を思い起こす。

台湾は韓国の民主化宣言から半月後の1987年7月、蒋経国総統が38年間の戒厳令を解除する。


翌年の総統の突然の病死によって昇格した李登輝副総統の政権運営はしかし、あくまで「臨時総統」と見なす大陸出身長老らの勢力が強く、微妙だった。

李総統は民主化に向けた政策をメディアに積極的に流すことによって、市民を味方に引き込むことに成功する。


自由と民主的な社会を渇望していた人々の思いそのものの民主化の流れに、長老らの動きは封じ込められていった。



尹氏は検事総長から一挙に大統領になった。
政治経験は皆無に近く、民主化体験も希薄だったのではないか。

2016年に職権乱用などを問われた朴槿惠元大統領の捜査を指揮したとき、退陣要求デモの「声」から学ぶものはなかったのか。

尹氏に李登輝の知恵の少しでもあったならばと思う。




2025年は朝鮮戦争勃発(1950年6月)から75年目にあたる。
休戦協定は戦闘開始から3年後に締結された。
韓国と北朝鮮は以後、それぞれの歴史を刻む。

北朝鮮は金日成から孫の金正恩総書記まで社会主義独裁国家が3代にわたり、国家存続のカードとしての核開発の手を緩めない。

24年秋にはウクライナに侵攻したロシア軍の一員として戦闘に参加、実戦経験を積んでいるとの観測も生まれている。



韓国は歴代大統領が治安強化などを理由に度々戒厳令を布告、軍事政権も長期に及んだ。

民主的な国づくりをスタートさせた後は、北朝鮮への同胞意識が強い「進歩」勢力と北朝鮮の脅威を声高に訴える「保守」勢力との対立が顕在化する。

進歩勢力はデモなどで時々の政治態勢にインパクトを与え、一方で北朝鮮が日々の行動で見せつける現実的な脅威に保守勢力の主張が弱まることはない。

尹大統領も非常戒厳の理由として北朝鮮の進歩勢力への浸透を挙げている。
両者の溝は一層深くなっていく。

いまも戦時体制が続く韓国が潜在的に抱える分断国家としての不安、恐怖、苦しみを推し量ることは難しい。
そのことへの視点を抜きにして、あるいは尹大統領の行動と社会の反応もまた、理解できないのかもしれない。


韓国は25年もまだ混乱の中にある。

光州事件から45年目の5月18日を、朝鮮戦争から75年目の6月25日を、韓国の社会と人々はどのような思いで迎えるのだろうか。


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