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アジア新風土記(22)ASEAN・内なる隣人たち
著者紹介 津田 邦宏(つだ・くにひろ) 1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。 |
ミャンマーの民主政権が国軍のクーデターによって倒されてから2022年2月1日でまる1年がたった。市民らへの弾圧は続き、現地の人権団体によれば国軍によって殺害された人たちは1500人に上っている。
アウンサンスーチー氏は21年12月から無線機不正輸入などで相次いで有罪判決を受け、計6年の禁固刑を言い渡された。20年総選挙での不正行為などさらに12件の罪で訴追されており、拘束は続きそうだ。
人々の日常は表面的にはクーデター前と変わらず、ヤンゴンの市場は毎日の食材を求める人たちで賑わい、朝夕の通りは通勤の車、自転車で溢れているという。
朝日新聞の「クーデターから10カ月」は、「誰も口にしないが、将来の希望もないのに、それでも働かなければならない。街に人出は戻っても、人々の心の中は変わってしまった」と話す一人の市民の声を伝える。(21年12月14日夕刊)
ミャンマーの民主勢力は「統一政府」を立ち上げたものの、国軍の圧倒的な武力に散発的な戦いを強いられる。少数民族武装勢力との共闘も攻勢に転じるだけの力はない。
21年12月20日の東京新聞の国境ルポは、1988年に軍事独裁政権打倒の先頭に立ち、国境地帯で銃をとった「全ビルマ学生民主戦線」初代議長トゥンアウンジョー氏の話を書く。少数民族カチンなどと共闘後、国外に逃れて活動を続け、国境を接するタイ北西部メソトの町を「敗れた教訓を伝えるために」再び訪れる。「国際社会の制裁や禁輸に効果はなく、次第に関心も薄れていくことは歴史が証明している」と話した。
国際社会は彼の言葉を否定できないまま、月日だけが過ぎていく。
東南アジア諸国連合(ASEAN)もまた、発足当初からの「全会一致」「内政不干渉」という原則が行動を制約、抜本的な現状打開の手立てを持ち合わせていない。
ASEANは1967年、東南アジア域内の経済成長、社会文化の発展などを目的にしてタイ、インドネシア、フィリピン、マレーシア、シンガポールの5か国で発足した。ブルネイ、ベトナムが加わり、97年にラオス、ミャンマー、99年にはカンボジアが参加して10か国体制(ASEAN10)になる。
ミャンマーは軍事政権・国家法秩序回復評議会(SLORC)のときだったが、軍事政権は加入の障害にはならなかった。国内の民主社会を問う前に地域経済の発展が求められた時代だった。
1999年4月のハノイ会議で誕生した「ASEAN10」はかつて、東南アジアすべての国が地域協力機構のメンバーになるという「夢」として語られていた。各国の指導者らは地域が一つにまとまって国際社会に発言していくゴールを思い描いていた。しかし、式典会場に「夢」を実現させた熱気はなく、外相たちの表情に明るさはなかった。経済格差、民主化問題などの懸案を抱え、各国の立場の違いが手放しの喜びを打ち消していた。懸案は20年以上経ったいまも「懸案」のままだ。
2022年1月、カンボジアのフン・セン首相がミャンマーを訪問する。
この年の議長国になったカンボジアには、21年10月から首脳会議に出席できないミンアウンフライン国軍最高司令官を復帰させることで、存在感を示す狙いがあった。
両者は「ASEAN特使と(ミャンマー国内の)すべての関係者との面会の確約」で合意したものの、ミャンマー側は「現状への考慮」という条件をつける。各国は国軍支配の正当化につながることを憂慮、恒例の外相会議は延期になった。
ASEANとして国軍と合意した「暴力の停止」などの5項目はまだ履行されていない状況の中で首脳会議から締め出したことは、消極的とはいえ「クーデター後」を追認しない態度を示したという指摘もある。だが、経済的圧力といっても限度があり、軍事的な問題解決などはあり得ない話になってくる。
加盟国の問題にASEANが存在意義を見出せないなか、バイデン米大統領は米国大統領としては4年振りに首脳会議に出席、新型コロナ対策、気候変動などの協力関係強化を表明する。中国は習近平国家主席がASEANとの首脳会議で、関係を「包括的戦略パートナーシップ」に格上げすると宣言した。
ASEANの警戒心は強い。米国のインド太平洋地域の外交・安全保障協力体制である日米豪印の「QUAD(クアッド)」、米英豪の安全保障協力体制「AUKUS(オーカス)」に伴う東南アジアでの安全保障・軍事バランスの変化を恐れる。南シナ海領有問題での中国との話し合いはなお多難だ。各国の行動を規制する「行動規範(COC)」策定問題は、法的拘束力を導入するかをめぐって対立が続いている。
ASEANが「内政不干渉」問題を積極的に取り上げようとしたときがあった。
1998年のマニラ会議は、前年に軍事政権のミャンマーが加盟、当時は政情不安だったカンボジアの加盟問題が議題に上っていたときだ。民主化を求める国際社会の批判にASEANとしての立場を鮮明にしなければという認識はあっても、メンバーの国内問題にどこまで立ち入ることができるかは難問だった。
フィリピン外相が「柔軟な関与」という表現で他国への「発言」の可能性を示唆する一方で、インドネシア外相は「相対的なものだ」と応じ、各国それぞれの見解表明に含みを残した。ASEANの限界だったかもしれない。
ASEANは448万平方キロの大地に6億6400万人が暮らしている。欧州連合(UN)27か国より36万平方キロ広く、人口は2億1900万人も多い。コンセンサスを重視し、各国の内政に関与しないというスタイルは、広大な地域に生活レベルの異なる国があり、多様な価値観を持つ人々の社会にあっては、有効な知恵だ。ただ、ときに、ものごとへの曖昧さにつながっていく。
バンコクで、ジャカルタで、そしてヤンゴンで、人々の欧米との関わりについての知識は豊富だが、東南アジアの他の地域の人たちについては言葉が少なくなるのを度々経験した。欧米列強の植民地になった国々では宗主国との関係史は知られているが、隣国への関心は希薄だ。植民地にならなかったタイにしても例外ではないように思える。
「隣人たち」への「無知」の時代は終わったのか。理解を深めても垣根は越えないのか。日本人の「隣人たち」への見方は、そして自身は、と自問しながら、答えを探した。