アジア新風土記(37) カンボジアとPKO



著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。





カンボジアは30年前の1992年、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)
による新しい国づくりが始まった。シアヌーク政権が1970年に
親米ロン・ノル将軍のクーデターによって崩壊してから続いた内戦は、
1991年秋のパリ和平協定でベトナムが支援するヘン・サムリン派と
シアヌーク派、ポル・ポト派などの妥協が成立、混乱の時代は終わった。



平和に飢えた人たちはだれもがごく当たり前のことを口にした。

「平和になって家族と暮らせるのがうれしい」

「早く農民の生活に戻りたい」

「故郷に戻っても平和に暮らせるか心配です。
政治のことはわからないが、良くなっていると自分に言い聞かせなくては。
もう故郷を離れない」



プノンペン近郊の帰還難民受け入れセンターには
ようやく郷里に帰れる人たちがいた。
国連が支給した縦横1メートルのビニールバッグは、
どれもがはちきれるほどに膨らんでいた。
自転車を大事に抱える子もいた。




戦火を逃れていた人たちが各地から列車でプノンペン近郊に帰ってきた。(1992年6月)


1992年6月、UNTACによる各派武装勢力の武装解除が始まるが、
ポル・ポト派は武器を置く気配を見せず、戦闘は各地で散発的に
起きていた。
雨季に入って道路、水田、林などに埋められた
プラスチック製対人地雷などが豪雨、
川の氾濫などによって流され、
その処理はますます困難になっていた。


この年の9月、自衛隊が国連平和維持活動(PKO)の一環として派遣される。

各国PKO部隊が「軍隊」と呼ぶ自衛隊が戦後初めて外国の地に足を踏み入れた。

「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(国際平和協力法)」
6月の国会で可決され、国連決議などに基づく国際救援活動に対して、
停戦合意、紛争当事者の受け入れ合意など5原則を前提に自衛隊の参加が
可能になった。

9月11日に第1次カンボジア派遣施設大隊が編成され、
医療活動のほかUNTACスタッフの停戦監視活動などにも参加した。
75人の警察官も文民警察官として派遣され、
1993年5月には岡山県警の高田晴行警部補が武装集団に襲撃され死亡した。

PKOによる自衛隊の派遣は1996年の中東・ゴラン高原、
2002年の東ティモール、2011年の南スーダンなどと続き、
派遣隊員は延べ1万1千人を超えた。
2015年には国連職員らが武装勢力などの攻撃を受けた場合に
武器を所持して救出にあたる「掛け付け警護」が認められる。
しかし、2017年の南スーダンからの施設部隊撤退を最後に
新たな部隊の派遣はない。
PKOが後方支援による復興の手助けより危険度の高い
市民保護へと活動が変わってきたことも理由の一つと言われる。



1993年5月、UNTACが焦土のなかでこぎつけた初の総選挙は
シアヌーク殿下率いるフンシンペック党が第1党になり、
新生カンボジア王国の国王に即位したシアヌークの下、
第一首相のフンシンペック党・ラナリット氏が人民党の
フン・セン第二首相と権力を分け合った。


5年後の1998年7月の第2回総選挙は
前年7月のクーデターでラナリット第一首相を退任させた
フン・セン第二首相の権力固めの選挙だった。
彼の権力掌握劇を国民がどのように判断するかが問われたが、
人民党は第1党を占めた。


総選挙から2か月後、国王はアンコールワット遺跡での国会開会式典に臨んだ。

クメール王朝の壮大な回廊を前に

「地理的には極めて小さな国だが、すべてのカンボジア人が団結し、
犠牲をいとわなければ、再びかつての名声と国力を得ることができる」
と新議員らに語りかけた。




アンコールワットの国会開会式典であいさつするシアヌーク国王。左右にラナリットとフン・セン両氏。



1941年、18歳で国王に即位するとフランスからの独立運動を指導、
1955年の独立時に王位を父親に譲り「殿下」として中国、ベトナム、
米国などと虚々実々の外交を展開したシアヌークにとって、
おそらく最後の晴れ舞台ではなかったのか。

なぜ、アンコールワットだったのか。
カンボジアのかつての栄華に自身の栄光を重ね合わせたかったのか。
終始上機嫌で出席者らに何度も何度も胸の前で手を合わせる
「ソムぺェ」で応じた心の内を覗くことはできなかった。



この総選挙を朝日新聞は「平和こそ」というタイトルで連載した。

取材にあたって、フン・セン氏のための選挙とはいえ、
この国で「平和」はすべてに優先するのではないかと考えた。
ただ、選挙というものが定着していくかという懸念は根強くあった。
UNTAC一員として参加した日本人スタッフの
「まず選挙とはなにかから伝えていかなくては」
という言葉が重く残っていた。


カンボジアに砲弾の飛び交う社会はなくなり、
硝煙の中を逃げ惑う人たちもいなくなった。

選挙もまた少しずつ人々の日常に溶け込んでいった。
一方でアジアで一人の指導者が権力を最も長く保持する国にもなった。

1997年のラナリット氏失脚から25年経った現在も、
フン・セン首相の権力に揺らぎはみえない。
2021年12月には長男のフン・マネット陸軍司令官が
首相の座に就くことを支持すると表明、
与党・人民党は直ちに「将来の首相候補」
として全会一致で承認する。
「フン・セン王朝」への道筋はすでに出来上がりつつあった。


2022年6月、市、郡などの下にある地域行政区(コミューン)
1652議席の評議員選挙が行われた。

全国規模の選挙は2023年総選挙の前哨戦ともいわれ、
人民党が約8割の議席を得て圧勝する。
野党のキャンドルライト党は強権政治、汚職撲滅などを訴えたが、
選管による候補者資格剥奪、警察による支持者の逮捕などによって
勢いを削がれ、2割弱の議席に留まった。

同党は5年前の前回選挙で4割を超える票を獲得した
救国党メンバーらによって結成された。
救国党は躍進後、最高裁によって解党命令が出され、
人民党の一党独裁体制が確立していった。


国民の声、民意とはなにか。
政権に物申す存在がことごとく否定されていく中で、
それでも「平和こそ」なのか。


24年前、プノンペンで連載企画のタイトルを決めたときの思いは
いまの状況をどうみるのか。
答えは出てこない。

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