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アジア新風土記(48)ミャンマーの難民
著者紹介 津田 邦宏(つだ・くにひろ) 1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。 |
タイ西部メーソートの町は川幅50メートルほどのモエイ川によってミャンマーと国境を接している。晴れた日には対岸のパゴダ(仏塔)が陽光を浴びて黄金色に輝いていた。
国境にかかる橋を渡る人たちの検問は簡単に行われ、わずか100メートルほどの下流では浅瀬を渡渉する人たちがいた。警備の兵士たちも黙認したままだ。
人々は「ボーダー」を無視して生活圏を作り上げていた。
モエイ川を見ながら、国境とは何かと思った。(1998年12月)
難民キャンプの「家」は今も昔もほとんど変わっていない。
国民民主連盟(NLD)が政権を担う前の軍事政権時代、メーソート郊外のミャンマー人難民キャンプは屋根、壁を直径50センチほどのチークの落葉などで葺いた小屋がいくつも点在していた。
どの小屋も地上1メートルほどの高床だ。
チーク葉の壁の隙間からは熱帯の生暖かい風が常に入ってきた。
キャンプで暮らす人たちは多くが民族衣装のロンジー姿だった。
女性たちは顔に黄色く「タナカ」で化粧していた。
タナカの木でつくられる天然の化粧品だ。
米、油は支給されていたが、現金は日雇いで稼ぐしかなかった。
女性たちの一日の最初の仕事は水汲みで、男たちは朝、トラックに乗って近くの工事現場に働きに出かける。
日用雑貨を商う小屋があり、人々はビニール袋に必要なものを買い求めていた。
キャンプのはずれの路上では生鮮野菜、肉などを並べただけの小さな市も立った。
キャンプ内の広い通りは赤茶けた土だけが強烈だった。
白衣を着た僧が連れ立って托鉢していた。
小屋から出てきた人が一人、また一人と米を寄進する。
自分たちのわずかな米を僧に差し出す人たちの信心の深さを思った。
キャンプの昼下がりは時間が止まっているかのようだった。
キャンプ内の雑貨屋。現在はどこまで改善されているのだろうか。
子供たちの世界は小さく限られていた。
難民の一人はNLDが圧勝した1990年5月の総選挙を
「温かな気持ちであの日を迎えた。だれもが心を弾ませていた」と振り返った。
国民が圧倒的に支持したNLDの喜びも一瞬にして消え、軍に政権担当の機会を奪われる。
「選挙に勝っても銃をつきつけられた」
「何を話しても軍には受け入れてもらえなかった」
仲間が次々に殺され、逃げるしかなかった。
キャンプでの生活も心は落ち着かなかった。
「昼間はのんびりしているが、夜になると緊張する。
わずかな貴重品、衣類もすべて鞄の中に入れている」
タイに9つある難民キャンプにはいまも9万人以上の人たちが暮らしている。
最も古いキャンプは設立から40年近く経ち、保育所、学校が作られたところもある。
キャンプで生まれ育ち、キャンプ内の社会しか知らない人も多くなった。
2011年にNLDの政治参加が認められ、16年の民政移管によって経済が順調に伸び、治安状態も安定してくると、故郷に帰る帰還事業も少しずつだが動き出していた。
2021年2月の国軍によるクーデターが国と国民の未来を暗転させてから2年が過ぎた。
メーソート郊外の難民キャンプはどうなっているのだろうか。
人々はかつてのようにただ生きるためだけの暮らしに明け暮れ、モエイ川は着の身着のままの人たちが渡っているのだろうか。
国軍の政権掌握から1年だけでも数千人の人たちがタイに逃れたともいわれる。
軍事政権との直接的な対決を避けたいタイ政府の新たな難民への対応は厳しくなっている。
国境を越えられない人たちもまた増え続ける。
軍事政権は2023年2月1日、2年間の非常事態宣言を6か月間延長した。
8月までに実施するとしていた総選挙も先送りした。
2月2日には330郡区のうち、市民らの抵抗が激しい37郡区に戒厳令を発令する。
戒厳令下の地域はこれまでのヤンゴンなど7郡区から一気に5倍以上に拡大した。
NLDメンバーらが多く加わる民主派の武装組織「国民防衛隊(PDF)」と国軍の戦いは各地で続き、米国のシンクタンク「米国平和研究所」は武器を手にした市民らは6万5千人規模になっているとみる。
国境地帯、山間部はPDFと少数民族武装組織が共同戦線を張り、戦闘員、装備などで勝る国軍も苦戦を強いられる。
村々では国軍によってPDFとは直接関係のない村民らが家を焼かれ、殺害されているという。
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は1月、武力衝突、治安悪化などで住むところを失った人たちが約121万5000人と報告する。
NLDを率いてきたアウンサンスーチーさん(77)は計33年の禁固刑が言い渡され、政治活動は絶望的だ。
民主派勢力が立ち上げた国民統一政府(NUG)が頼りとする国際社会の「圧力」も成果を上げていない。
2021年4月に国軍と東南アジア諸国連合(ASEAN)が合意した暴力即時停止などの5項目は有名無実化している。
米国が2022年12月に成立させた民主派勢力支援の「2022年ビルマ法」も国軍への抑止力になるかは未知数だ。
ミャンマーの難民が暮らすキャンプはバングラデシュにもある。
2017年夏、西部ラカイン州のイスラム教徒ロヒンギャが国軍の大規模掃討作戦で国を追われてから5年半が経った。
90万人以上の人たちは電気のない飲料水も限られる竹とシートづくりの小屋でデング熱などの蔓延にさらされる。
劣悪な環境に老朽船でインドネシアなどに逃れようとする人たちも後を絶たない。
国民の約9割が仏教徒という国の国軍と市民らの戦いは、彼らの「ミャンマー国籍取得問題」解決と帰還への道筋をどこまでも曖昧なものにしていく。
「内戦」が終わらない限り、国を逃れる、逃れざるを得ない人たちが減ることはない。
みな弱い人たちばかりだ。
弱くて貧しい人たちばかりだ。
アジア各地で難民の収容キャンプをいくつか取材した。
カンボジアの内戦が続いていたころ、カンボジアと国境を接するタイ東部のカオイダン難民キャンプでは、停戦の知らせに何度喜び、何度裏切られたか、と話してくれた人がいた。
ベトナム戦争でボートピープルが辿り着いた香港の難民収容所では、本国への強制送還決定への失望などから難民同士が争う事件も起きた。
難民たちの目に輝きというものを感じることは稀だった。
暗い目をした人たちのなかに、ときに柔らかな優しい目を見ることもあった。
砲撃、銃撃を逃れ、とにもかくにも安心して夜を送り朝を迎えられるという安堵が、そのような目にさせるのだろうか。