梅田正己のコラム【パンセ16】 戦後沖縄にしか生まれ得なかった人間像

*本稿は、法政大学沖縄文化研究所編『沖縄文化研究』47号(2020年3月刊)の
「新崎盛暉先生 追悼特集」に寄稿したものです。




戦後沖縄にしか生まれ得なかった人間像

                      高文研前代表 梅田 正己



私が沖縄の問題について思いをめぐらすとき、そこには必ず新崎盛暉さんがいた。新崎さんなら、これをどう見るかな、どう考えるかな、と私はまず思ったのだった。新崎さんが去ってから1年半になるが、今もその癖が抜けない。

新崎さんに出会ったのはだいぶ以前のことになる。1964年のことだ。

その前年、私は出版社・三省堂で創刊された高校生対象の月刊誌『学生通信』の編集を担当することになった。高校生に向け辞書や学習参考書をPRするための月刊誌だったが、私はそれらの宣伝は広告欄に限定し、できるだけ社会的・政治的な記事で紙面を埋めることに努めた。かつて受験勉強に埋没していた自らの高校時代に対する反省と悔恨からだった。


創刊2年目の64年、雑誌『世界』7月号にきわめて興味深い記事が載った。表題は「ルポルタージュ・12回目の屈辱の日 沖縄の4月27日」、筆者は新田暉夫とあった。当時の高等弁務官はキャラウェイ、その強権支配の下、創意工夫をこらしての、したたかな復帰運動を生き生きと伝えたルポである。


ぜひこの新田氏に執筆を頼みたいと思い、『世界』編集部に電話をかけ、連絡先を教えてほしいと頼んだ。返事は、ご当人の承諾を得てから、ということだった。

返事は翌日あった。新崎さんは当時、東京都庁の監査事務局に勤務、職場は有楽町駅前の交通会館の何階だかにあった。そこへ訪ねたのだったが、『学生通信』が高校生対象であると聞いて、新崎さんはつい先日、伊豆七島の三宅島へ都立三宅高校の監査の仕事で行ってきたと話してくれた。執筆依頼はもちろん快諾だった。


『学通』9月号の「シリーズ現代の目」に掲載された記事のタイトルは「忘れられた日本〈沖縄問題〉」、小見出しを拾うと――「知らされぬ沖縄の実情」「奪われた90万人の権利」「祖国復帰運動の精神」となっている。当時の日本国内における沖縄問題についての関心と認識のレベルがわかる。筆者名はこれも新田暉夫であった。


翌65年は、戦後20年の節目にあたる。この年6月、中野好夫・新崎盛暉共著の岩波新書『沖縄問題二十年』が出版された。『学通』にはそれより少し早く、「戦後20年のシリーズ企画」のトップバッターとして新崎さんに「戦後沖縄の歩み」を4月、5月、6月号の3回、寄稿してもらった。このときの筆名は新崎盛暉となっている。こうした中、新崎さんと私が同年(1936年早生まれ)であることを知った。


『学通』にはもう一回、新崎さんに登場していただいた。66年1月号の座談会「揺れるアジア・日本の進路」である。その後も、私が執行委員をやっていた三省堂労組の集会で新崎さんに講演してもらったりしたが、その後まもなく不祥事で社を追われていたオーナー社長がカムバック、『学通』は廃刊の憂き目にあうことになった。編集方針が気に入らなかったのである。


そこで72年、沖縄の日本復帰の年、私は仲間とともに出版社・高文研を設立、『学通』を引き継ぐ『月刊・考える高校生』の発行を開始した。2年後の74年、新崎さんは沖縄大学に赴任、その存続・再建に奮闘となる。

 
77年、私は沖縄の高校を取材した。沖縄では校舎が決定的に不足し、どの県立高校も生徒数1500人を超えるマンモス高校だった。その折、新崎さんに再会した。新崎さんは居酒屋うりずんで、「今度こんなことを始めたんだ」といい、『琉球弧の住民運動』創刊号を見せてくれた。

 

 
80年、新崎さんが高文研に現れた。副学長になったとのことで、本土からも学生を募集したい、そのため『考える高校生』に沖大の広告を出したいということだった。そのときの会話の中、私は沖縄の高校を取材して沖縄の困難な教育事情を知り、沖縄の教育に何らかの協力ができないかと思っていると話した。沖大も地域に根差す大学をめざしている。そこで「教育セミナー」を共催で開くことが決まった。講師の派遣は高文研、会場の設営は沖大、の役割分担である。


 
81年夏、沖縄の小中高の先生たちに呼びかけて第1回のセミナーを開いた。たくさんの先生たちが参加してくれた。3日間のセミナーを終え、どこかの食堂で新崎さんと二人、現金(参加費)を数え、赤字にならないことを確認して互いに安堵した。そのとき食堂のテレビが「奇跡の1マイル」国際通りの歴史を放送していたことを覚えている。

 
第2回のセミナーには本土からの参加も呼びかけた。それでせっかくだからと、セミナーの最終日、沖縄戦の戦跡と基地のフィールドワークを企画した。参加者が少ないときは沖大のマイクロバスを使えばいい、と話していたところ、なんと本土からの参加者だけでなく、沖縄現地の先生たちも大挙して参加を希望してきたのである。そこで急きょバスを2台に増やし、ガイドする講師も倍にして、基地と戦跡、半日ずつかけて強行軍で回ったのだった。

 
この経験から、教育もだいじだが、沖縄戦の実態と基地の現状を目と足でたしかめるこのフィールドワークが当面最重要、喫緊のことではないかと考え、第3回以降は沖縄セミナーの内容を戦跡と基地のフィールドワークに切り替えたのである。沖大、高文研共催のこのセミナーは、80年代いっぱい90年まで10回ほど続けた。


 
なお当時の講師に聞くと、沖縄戦の戦跡と基地を一つにつなげたフィールドワークは、このセミナーが初めてだったということである。沖縄戦に引きつづいて米軍基地がつくられたことは、普天間基地のなりたちなどを見れば明らかであるが、以前は基地問題は労組などの活動家が引き受け、沖縄戦は研究者たちがとりくむという役割分担になっていたという。

 
ところで、セミナー2回目の最初のフィールドワークの後、講師たちと総括を行なった中で、沖縄戦の最大の被害者である住民を正面にすえた戦争の実相と、基地の現実についての認識が、現地の沖縄においても十分でないということがわかった。まして本土の方は言うまでもない。そこから『観光コースでない沖縄』の企画が生まれた。その執筆メンバーもすべて、新崎さんに決めてもらった。この本はロングセラーとなり、改訂を重ねて現在、第4版となっている。



 
その後も高文研では新崎さんの『沖縄反戦地主』や『構造的沖縄差別』を含め、約90点の沖縄に関する本を出版しているが、その原点には新崎さんが立っているのである。

 







 
新崎さんには若いころに書いた『沖縄の歩いた道』(ポプラ社)という本がある。それにちなんで「新崎さんが歩いた道」を振り返ると、新崎さんは2足のわらじではなく、3足のわらじをはいてその生涯を歩き通したと言えるのではないかと思う。

 
1足目のわらじは、もちろん研究者としてのわらじである。その業績は何といっても「沖縄現代史」というジャンルを確立したことだ。考えてみると、他の県ではその県名を付した「現代史」は成立しない。ただ一つ「沖縄現代史」だけが成立する。理由は、沖縄の現代史が、この国の現代史の核心部分に突き刺さっているからである。米国への政治的・経済的・軍事的従属を見ないでこの国の現代史は語れないが、その歴史と現実は、沖縄において最も深く食い込み、かつ鋭く露出している。沖縄からは日本がよく見えるというのは、この意味である。

 
「沖縄現代史」は確立されるべくして確立された。東大で社会学の日高六郎ゼミに学んだ、新崎盛暉という最良の研究者によって。

 
2足目のわらじは、運動家としてのわらじである。新崎さんの本格的な沖縄問題とのかかわりは「沖縄資料センター」から始まるが、この資料センターの活動そのものが運動だった。そして60年代末には「沖縄闘争」にかかわり、次いで沖大存続・再建運動の主役となり、また金武湾を守る会、さらに一坪反戦地主運動、韓国の反基地運動との提携、そして晩年の沖縄平和市民連絡会の共同代表まで、新崎さんの姿は常に状況変革をめざす運動の中にあった。

 
最後の3足目のわらじは、ジャーナリストとしてのわらじである。だいたい私が新崎さんに出会ったきっかけも『世界』に寄稿した「ルポルタージュ」だった。新崎さんは自分のことを指してよく「物書き」といったが、その書くものの多くは現在生起している事象に対する現状分析であった。まさしくジャーナリスティックな仕事である。毎日新聞への長年にわたる寄稿をはじめ、新崎さんは沖縄にかかわって生じる問題の過程を追い、その本質を解析して、それを一般市民に伝える役割を果たしつづけた。その意味で、新崎さんは沖縄問題にかかわるジャーナリズムの第一人者だったといえるのではないかと思う。

 
季刊誌『けーし風』の創刊も、出版ジャーナリストとしての大きな仕事だった。その創刊からすでに四半世紀がたつ。雑誌の持続刊行がどんなに大変かを知っている出版人の一人として、その陰のご苦労のほどが偲ばれる。

 
このように見てきて、新たに脳裡に浮かんでくるのは、県名を付した現代史が「沖縄現代史」以外には成立しないように、研究者・運動家・ジャーナリストが一体となった新崎さんのような人間像は、戦後沖縄だけにしか生まれ得なかったのではないか、という思いである。

 
新崎さんの『私の沖縄現代史』は残念ながら第1巻だけで中絶されたが、その生涯はまさに沖縄現代史そのものであった。幸い新崎さんは、歴史の進行に即した“ジャーナル”な評論、エッセイ、座談を数多く残してくれている。それらを読破し、駆使して、沖縄現代史としての「評伝・新崎盛暉」が、いつの日か若い研究者によって書かれることを、ひそかに願っている。       (了)

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