アジア新風土記(78) 台湾新総統の誕生




著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。

 

 

2024年5月20日、台湾の頼清徳新総統の就任式が台北の総統府で行われた。







蔡英文前総統から民進党政権を引き継いだ新総統は中国との関係について

「共に平和と共栄を追求する」

と挨拶、現状を維持していく考えを強調した。


米国、日本、韓国など51の国・地域の代表団を前に

「民主主義国家と共同体を形成する」

とも述べ、民主主義陣営に立つ立場を明確にした。





新総統の就任演説はこれまで、中国とどのようにつき合っていくかを明らかにするものとして注目されてきた。

16年に国民党の馬英九総統に代わって民進党から選出された蔡前総統は、中国と共に築いてきた「現状と成果」を大切にすべきだとして、中国の「統一」への動きは退けつつ新たな関係構築の道を探った。


頼氏は蔡氏の方針を踏襲しながらも

「中華民国と中華人民共和国は互いに隷属しない」


「中国の主張を全面的に受け入れ、主権を放棄したとしても、中国の台湾併呑の企てが消えることはない」


と述べ、中国を強く牽制した。蔡氏の就任演説に比べ、「中国」という言葉を敢えて使うなど厳しい姿勢が目立った。



中国が両岸交流の前提とした「92年コンセンサス」には触れなかった。

中国は1992年の中台会談で双方が口頭で一つの中国という原則を認めたと主張、蔡氏も8年前の演説で「若干の共通認識と了解に達した歴史事実を尊重する」と妥協した。

その表現に中国の前向きな評価がなかったことが、この問題に言及しないという対応を促したともいえる。


中国・国務院台湾事務弁公室は直ちに

「台湾海峡の平和と安定を破壊する危険なシグナルだ」

と反発した。


共産党機関紙・人民日報、国営中央テレビも連日、頼演説の批判記事、論評を展開する。

23日からは2日間の日程で台湾を囲む5つの演習区域でロケット軍などが参加する軍事演習を行った。

海警局の金門島海域でのパトロール常態化など威圧的行動の激化も予想される。



総統選挙と同時に行われた立法院(国会)委員選挙で第1党になった野党・国民党の馬英九元総統を北京に招くなど、同党とのパイプを通じた新政権への揺さぶりもかける。国民党はどこまで中国と歩調を合わせることができるか。


対中宥和路線には限界もある。
台湾の有権者は中国を外国と考える世代が増え続ける。
中国との一体感を示せば示すほど、次期総統選での勝利からは遠ざかっていく。



国際社会の一員であることを政権運営の一つの拠り所とする頼氏にとって欧米、日本との関係緊密化は命綱だ。

特に米国との関係は最重要のテーマともいえる。

米国は議会を中心に台湾を民主主義国のメンバーとする動きが強くなっている。


秋の大統領選挙がどのような結果になったとしても、台湾を擁護する基本的スタンスに大きな変化はないのではないか。



外交経験に乏しい頼氏に蕭美琴(しょう びきん)副総統の存在は大きい。

台湾人の父と米国人の母との間に神戸で生まれた蕭氏は、20年夏から台湾の「駐米大使」に相当する駐米台北経済文化代表処代表に就任、民進党の政府、議会でのネットワークづくりに貢献した。


副総統就任前には米国、欧州を訪問して要人らと会見、新政権の外交政策を説明して回ったとみられる。蕭氏が新たな外交の担い手として台頭してくる予感もある。




台湾の頼清徳総統と蕭美琴副総統。(2024年1月11日、総統選総決起大会で)






台湾にとって中国との貿易が重要なことに変わりはない。


日本貿易振興機構(JETRO)の「台湾の貿易と投資」(23年12月14日)によれば、台湾財政部発表の22年の対外輸出額4794億ドルのうち、香港を含めた中国の割合は38.8%を占める。

ただ、23年の対中直接投資は全体の11.4%(30億3681万ドル)に過ぎず、10年のピーク時83.3%「から大きく低下した。中国市場の魅力は薄れつつある。


中国が規制を強化すれば台湾経済は衰退するという見方は一概には否定できないものの、中国が台湾の半導体産品を求めているという状況は、台湾にとって有力な対抗材料だ。


台湾財政部のまとめでは、22年の集積回路(IC)の輸出額1841億ドルの内、対中比率は58%(中国31.3%、香港26.7%)にもなる。(JETRO 地域・分析レポート、23年2月16日)



頼氏は就任演説でも「未来の世界に目を向ける」として「台湾は半導体の最先端のプロセス技術を掌握し、AI(人工知能)革命の中心に立っている」と自信をのぞかせた。

半導体分野における米国、日本などとの結び付きにインドも加わる。


半導体技術が欲しいインドと中国に代わるサプライチェーン(供給網)を求める台湾の思惑が一致した。


24年3月13日、インドのグジャラート州、アッサム州の3つの半導体工場のオンライン起工式には台湾外交部・田中光次長がリモート参加、モディ首相も「注目すべきは台湾からの友人が参加してくれたことだ」と述べた。


頼氏は台湾北部の新北市の炭坑労働者の家に生まれた。
生後3か月で父親を炭坑事故で失い、苦学して台湾大医学部を卒業する。


台南の成功大病院内科医時代の1994年、台湾初の台湾省長直接選挙で台南医師後援会長として民進党候補を応援、2年後の総統直接選挙では中国の台湾海峡へのミサイル軍事演習に遭遇、政治の道を決意する。


台南市長時代の2015年には「私は台湾独立を主張する」と述べ、行政院院長(首相)就任後も台湾の独立問題に言及するときがあった。



頼氏の政治活動の原点となった台南から台湾鉄道で北に向かうと五つ目に善化という駅がある。




戦前は製糖工場があって賑わった町の駅もいまでは辺りに田畑が広がるどこにもあるような田舎の駅だ。

10年ほど前に立ち寄ったとき、空襲時に備えた避難路とシェルター入口の「案内板」が目についた。

軍事施設があるわけでもなく、空襲などとは無縁のような所にもこういうものがあるのかと、小さな衝撃だった。

日本にいると「戦争」は影の薄い存在になりがちだ。
台湾を歩いていても、戦争のにおいを肌で感じたことはほとんどなかった。
見てなかったというべきなのか。

地元の人たちには見馴れたものかもしれない案内板は戦争の脅威が常に身近にあるという事実を端的に語っていた。

「現状維持」という言葉に潜む重く深い意味を悟らされた。




善化駅近郊風景




善化駅地下連絡路の案内板




善化駅の案内板

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