アジア新風土記(4)サイゴン



著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。








ベトナムのホーチミンは、人々の活気が道路、市場、そして高層ビルさえも圧倒する街だ。大通りも裏道もオートバイ、車が道幅いっぱいに走っていく。喧噪の中、自転車に乗った白いアオザイの女学生が通り過ぎるときだけ、辺りは一瞬の静けさを取り戻す。市場は荷台に溢れ落ちるような野菜、果物、肉が並び、その瑞々しい生気さえも吞み込んで売り子と買い物客が生活のにおいをぷんぷん漂わせながら歩き、声を上げている。

街はかつてサイゴンと呼ばれていた。ベトナムがまだ南北の分断国家だったころの南ベトナムの首都だった。



サイゴンの街を走るオートバイ


「テト(旧正月)」を前にした2021年1月25日のベトナム共産党大会は、2期10年続くグエン・フー・チョン書記長の続投問題が焦点だった。党大会関連記事に5年前の党大会で後継と目されて失脚したグエン・タン・ズン元首相の名前があった。ベトナム戦争で「反米、反帝国主義」を標榜した反政府組織「南ベトナム解放民族戦線(通称ベトコン)」の一員として戦った経歴が、南ベトナムとサイゴンの時代を呼び起こした。

ズン氏は現在71歳。ベトナムの南部で生まれ、若くして南ベトナム解放民族戦線のメンバーになり、ベトナム労働党(現ベトナム共産党)の南部組織にも入党する。戦後は共産党の党務、政府内で頭角を現していった。

チョン書記長はハノイ出身でこの春77歳になった。ベトナム戦争中はハノイ総合大で学び、ベトナム共産党の前身であるベトナム労働党機関誌の職員、モスクワ留学、ハノイ市党委員会書記と幹部への階段を着実に上がってきた。

南北分断時の対立はいまも根強く残っているのだろうか。 


19世紀初めに興って全土を統一したグエン(阮)朝は1884年、仏領インドシナ(フランス植民地)に編入される。第2次大戦下、日本軍はグエン朝最後の皇帝・バオダイを擁立。日本敗戦後はベトナム民主共和国(北ベトナム)が成立、ホー・チ・ミンが初代国家主席に就任した。フランスはインドシナ戦争を仕掛け、49年にバオダイ帝を復位させた「ベトナム国(南ベトナム)」を誕生させる。南北ベトナムは「北緯17度線」を挟んで対立する。

ベトナム戦争がいつ始まったかの定義は様々な意見があって難しいが、軍事介入した米軍の65年の北爆開始後、戦闘は苛烈を極めていき、北ベトナム軍の「テト攻勢」が毎年のように伝えられた。共産主義とキリスト教との戦いという指摘もあった。南ベトナムは北部から逃れてきた多くのカトリック教徒が政権を支える力になっていた。米国の後ろ盾があったゴ・ジン・ジェム大統領もクリスチャンだった。社会の規範なり指針をどのようにつくっていくかの戦いがベトナム戦争の一面にはあったのだろう。

開高健は64年11月にベトナムに入り、砲火と硝煙と人々の営みを「週刊朝日」に送る。ルポをまとめた『ベトナム戦記』は「サイゴンは悲しくて軽薄で罪深い都である。一歩郊外へでたらジャングル、水田、国道、夜昼問わずに血みどろの死闘がおこなわれているというのに、ナイト・クラブやキャバレは夜ごとフランスのストリップ娘や日本のストリップ娘を呼んで楽隊入り、どんがらがっちゃんの大騒ぎである」と書く。




69年のパリ和平会議は、南ベトナム臨時革命政府外相として参加したグエン・ティ・ビン女史の凛としたアオザイ姿が鮮烈だった。中国は文化大革命の真っただ中にあり、若者たちが毛沢東語録を手に「造反有理」を叫んでいた。日本ではべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)のデモに関心が集まり、機動隊とぶつかった学生が殺された。ジョーン・バエズの反戦歌がヒットしていた。

75年4月30日、サイゴンが陥落して戦争は終わった。北ベトナムは統一ベトナムを主導、サイゴンはホー・チ・ミンの名前をとって「ホーチミン市」と改名された。南ベトナム解放民族戦線も2年後になくなった。そのころの私は朝日新聞に入社して4年目だった。仙台支局で毎日県版のネタ探しに四苦八苦していた。外電で流れてくるビッグニュースも頭の端から端へと消えていった。


戦火が止んで今年で46年目になる。あと4年もすれば「戦後50年」だ。戦争は風化していき、歴史の奥深くへと埋没していく。


チョン書記長は共産党大会で3選を果たし、長期政権をスタートさせた。「2期10年」という党規約の特例として決まった。経済は米中対立の余波を受けて各国が工場を中国からベトナムに移す動きをみせるなど順調だ。しかし、農村の働き口は少なく、海外への出稼ぎ労働者は増え続け、密出国という不法手段をとる若者らは後を絶たない。一党独裁体制は変わらず、新型コロナ禍はフェイスブックで政府批判した人たちの拘束を「誤った情報から守る必要がある」として容認していく。国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)は、20年の1年間で少なくとも28人の人権活動家らが「反国家宣伝罪」「民主的権利の乱用罪」で逮捕、起訴されたとみる。

長い歳月でも消し去ることのできない痕跡もある。米軍はゲリラ掃討を目的として、ダイオキシンを含む枯葉剤を300万ヘクタールに7千数百万リットルも散布したといわれ、ベトナム政府が支援する「枯葉剤/ダイオキシン被害者協会(VAVA)」によると約480万人が浴び、約300万人が死亡または重い障害を負ったという。後遺症はいまも人々を苦しめる。因果関係の究明、特定は原爆症と同じように非常な困難を伴う取り組みだ。

『ベトナム戦記』は「たそがれどきになるとサイゴン河の河岸には上げ潮に乗ってやってくる小魚を釣る子供が群がる。リールがわりに空罐に糸を巻きつけ、五センチほどの頭の平べったい小魚をミミズで釣る。そのまわりには砂糖キビ、焼きスルメ、バナナの天ぷら、ジュースなどを売る屋台が群がる」とも書いた。

サイゴン川河畔にある開高の定宿、マジェスティックホテルに20年ほど前、泊まった。屋上バーから見下ろすあたりは、開高が見た風景とほとんど変わらなかった。サイゴン川とその先に黒いジャングルが見えた。日が落ちて、街の明かりが時間の経過とともに輝きを増した。ジャングルは漆喰の闇の中に沈んでいった。



開高健が投宿したマジェスティックホテル

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