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アジア新風土記(85) サンフランシスコ講和条約
著者紹介 津田 邦宏(つだ・くにひろ) 1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。 |
日本の戦後史に9月8日はどのように記憶されていくのだろうか。
1951年9月8日、日本はサンフランシスコ講和条約に調印して、
敗戦後の占領時代に終わりを告げ、独立国としてのスタートを切った。
毎年のこの日はしかし、ほとんど注目されることはなく、
2024年も新聞、テレビなどのメディアで話題になることはなかった。
73年前の日本社会はこの講和条約をどのように受け止めたのか。
新聞各紙に拾う。
朝日新聞、毎日新聞の9日1面の見出しは
「講和条約こゝに調印 四十九カ国が参加 午前三時三十四分吉田全権署名 会場に『日章旗』を追加」「サンフランシスコ講和条約・今暁調印 四十九カ国が参加 各国代表起立して吉田全権に拍手 晴れて日章旗翻る」
とあった。
社会面のトップは吉田茂首相が主役だった。
「巻紙に日本語で 演壇上の吉田全権」
「演壇に立った吉田さん 日本語で淡々と廿分 満堂に湧く拍手 机一杯に巻紙拡げて」
社会の空気をわずかながらも伝える記事は10日付け毎日新聞社会面の皇居周辺と歌舞伎座でのエピソードだった。
昭和天皇の「吉田全権の演説もラジオで聞いたが、全権もこんどは大そうご苦労だった」という労いの言葉を伝え、続けて「二重橋前はいつもより人出が多く深く頭をたれる人々の姿が見受けられた」と書く。
歌舞伎座の中村吉右衛門は幕間の舞台で
「講和条約が結ばれましてご同慶の至りです」と口上を述べる。
「期せずして“播磨屋、同感”の声が客席から起り吉右衛門の音頭で一同起立して“新日本万歳”を三唱した」
トップ記事の扱いではなく、社会が興奮と喜びで迎えるという雰囲気ではなかったことを伺わせる。
人々の日常生活の中で「9月8日」は特別な日ではなかったということか。
「戦後」はあくまで1945年8月15日の昭和天皇の玉音放送に始まる。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が全権限を掌握していても、国会はある、内閣総理大臣はいる、といった社会は、占領と独立後を明確に区別するという発想には程遠かった。
講和条約の調印は日本本土と奄美、沖縄が分離されたことを意味していた。
朝日、毎日の9日付け社説を追う。
「吉田全権は、第一に琉球、小笠原等の諸島の主権が日本に残されることを喜ぶと同時に、これら諸島が一日も早くわが行政下にもどることを期待した」「われわれは吉田全権がいうように、琉球、小笠原に関する米英全権の発言が直ちに日本に主権が残ることを意味するとは考え難いし(後略)」
両社説とも沖縄については吉田発言を引用しながら語っているが、同胞の置かれた状況への悲憤はなく、冷たいと感じるほどの突き放した言い方のようにも思える。
沖縄はすでに「琉球」と表現されている。沖縄を「琉球」と言い表す米軍に倣って戦後の沖縄県人を「琉球人」とした日本政府の方針に沿ったのか。
(『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』参照、津田邦宏、高文研、2019年)
9月6日付け沖縄タイムスの社説をみる。
「祖国日本の喜びを遥かに眺めながら形容しがたい憂鬱に閉ざされるのが九十余万の琉球住民であり、祖国と切離される信託統治の運命が此の会議に於て決定されるのだ。祖国と喜びを共にすることの出来ない悲痛と今後の自主的に処理し得ないことから生ずる多くの困難を予想することによつて与えられる憂鬱感を率直に表明せざるを得ない」
那覇の調印直後の表情は10日付けの社会面が次のように伝えている。
「きのうの那覇の街は、講和条約が調印されたことにも表面無感動なとらえどころのない表情だ、と見うけられた。(中略)『講和条約調印さる』といち早く貼られた街の速報ビラに立ち止る人はごく僅かなものだ」
名瀬特派員の話も載る。
「全島の人々は暗い思いにつき落され、全く虚無状態に陥つている。(中略)奄美大島の各家庭ではこの日から二十日間弔旗を掲げてこの悲しい運命の日を心にきざむ」
敗戦から6年余りは占領されていた事実への自覚の乏しさは、調印後も「占領」下に暮らす沖縄などの人たちの思いを希薄なものにしていく。
いまも続く本土と沖縄で生じる様々な問題への見解、意見の相違の根っこの一つがそこにあるのではないか。
講和条約に交戦国の中国とソ連が加わらず、片面講和だったことも、沖縄と同様に留意すべき一面だ。
中華人民共和国と国民政府(中華民国)に分断されていた中国は両代表とも招聘されず、ソ連は会議には出席したものの、独立後の日本に米軍が駐留すること、中華人民共和国が呼ばれなかったことなどを理由に署名しなかった。
日本は片面講和と条約の直後に調印された日米安全保障条約によって冷戦下の西側陣営に組み込まれることになる。
9月8日を改めて意識したのは台湾に暮らしていたときだ。
10年ほど前のこの日、台北の凱達格蘭大道(総統府前大通り)で「台湾独立建国」の幟などを立てた500人ほどのグループに出会った。
台湾独立を志向する人たちは講和条約では台湾帰属についての法的地位は未定のままだと話した。条約で日本は台湾と澎湖諸島の権利、利権及び請求権を放棄したが、台湾の帰属は明文化されていない。
主張は政権与党の民進党はじめ他の政党からの支持はなく、台湾内での影響力はほとんどないが、条約への多様な認識、見方があることを思い知らされる。
台湾は45年9月、中国の国民政府軍が連合国軍を代表する形で進駐、台湾省という行政府も設置する。
米国など他の連合国が「黙認」したことで実効支配が固まり、そのまま現在に至っている。
法師ゼミの鳴き声を聞くようになって久しい。
8月にはあれほど喧しかった「戦争」「戦後」のにおいがすっかり影を潜めた。
8月が過ぎてなお、戦争、占領、平和を考えるときがある、と一人思う。