アジア新風土記(59)東京・奥多摩の台湾出身戦没者慰霊碑



著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。




 

東京・奥多摩の山に台湾出身戦没者慰霊碑がある。太平洋戦争が終わって30年後の1975年8月15日に建立された。JR青梅線の奥多摩駅から山梨県小菅村に向かうバスで奥多摩湖畔の峰谷橋で下車、麦山峰線林道を20分ほどだ。







2023年7月の暑い盛りの一日、山道を登った。
林道入口には標識らしきものはない。
奥多摩の山は杉の人工林が多く、雑木林は少ない。
強い日差しは杉木立が防いでくれるが、それでも汗が流れてくる。
林道の右手眼下には奥多摩湖が見えた。
しかし、歩き始めて10分ほどで道は残念ながら通行止めになっていた。
奥多摩町役場の説明ではモトクロスで林道を利用する人が多く危険なので対策をとったという。


慰霊碑への林道から見下ろした奥多摩湖


台湾から運ばれた大理石の慰霊碑には
「あなた方がかつてわが国の戦争によって尊いお命をうしなわれたことを深く心にきざみ永久に語り伝えます」
と刻まれている。
3年後には同じ台湾の大理石で「蕃刀」(先住民が用いた刀)を模した慰霊塔も建った。
台湾人兵士らへの補償が行われていないにもかかわらず、なおも日本人に温かい心を寄せてくれる台湾の人たちに打たれた弁護士の越山康氏と地元有志らが浄財を集めたという(台湾と日本・交流秘話名越二荒之助・草開省三編、展転社、1996年)。
コロナ禍で人々の会合などが大きく制限されるまでは台湾協会、日本李登輝友の会などによって慰霊祭が行われてきた。


台湾に戦前暮らした人たちの日本軍への参加は日本人、台湾人の区別なく、1942(昭和17)年の陸軍特別志願兵制度、翌年の海軍特別志願制度などのほか軍属の募集も行われた。北京語、福建語などの翻訳軍属として台湾人に特定した採用もあった。

台湾紙「臺灣新報」が1944年7月21日に掲載した「臺灣軍南方派遣調理技術者募集」広告には「内台人(日本本内地出身者と台湾人=筆者注)ヲ不問 約二三〇名 服務期間約二ケ年」とあった。


「台湾新報」の広告


1945年6月20日、安藤利吉台湾総督の台湾始政50周年を記念したラジオ放送は、台湾人を日本人の「同胞」として強調する。
「本島居民即ち在住の内地人本島人高砂族(日本人、中国人・台湾人、先住民=筆者注)その何れたるを問はず等しく同胞としてこれが安寧幸福を進めて行くと云ふ大方針が先づ第一に五十年前の今月今日確立され連綿として本島統治の基調をなして参つた」

戦局は1944年7月7日に西太平洋・サイパン島が陥落、劣勢が動かし難くなっていた。大本営は連合軍が台湾に上陸するという想定に傾き、台湾を要塞化して決戦に臨むためにも台湾人を加えての戦力増強は急務だった。

1944年9月1日、台湾でも日本国内と同じように徴兵制が実施される。

「臺灣新報」は7月8日、徴兵制実施を「六百六十萬島民の感激の的である本島徴兵制度はいよヘ(いよ)来る九月一日から実施されることになり、米、英撃滅に一死報国を誓ふ本島青少年はこの喜びの日に備へて早くも心身の錬成に真摯な努力を続けてゐるが、苛烈なる戦局の下に島民にどしヘ(どし)□の御楯として栄ある帝国軍人になり得る本制度の実施は正に本島統治史上の割(ママ)期的な出来事」と報じた。

徴兵制から1年も経たず日本は敗戦を迎える。
厚生省統計によると台湾人の志願・徴用軍人・軍属は20万7183人(軍人8万433人、軍属12万6750人)にのぼった。先住民は軍属として6千人が志願・徴用されたとしている。死者不明者は3万304人。9割以上が軍属だった。
南方に派遣された軍属の業務は兵站、土木工事、物資・傷病者の搬送など多岐にわたり、戦闘に投入された人たちもいた。



敗戦に自殺した台湾人もいた。台湾から引き揚げた沖縄出身官兵の手記をまとめた『琉球官兵顛末記』(台湾引揚記刊行期成会、1986年)の敗戦翌日の話から拾う。

一人の陸軍将校は「翌十六日の朝早くいたましいニュースが入って来ました。それは昭和十九年から徴兵された台湾出身の一等兵某が自分の銃剣で自殺したということです。日本の敗戦によって、自分達台湾出身兵は日本国軍として、忠誠を誓って改姓までしたので、同じ台湾人からしいたげられるのがつらいので、自分は最後まで日本国と運命を共にしたい、と書き残して自殺するという事件があり」と綴っていた。

厚生省統計にこの「一等兵某」は加えられているのだろうか。

「同胞」だった台湾人の戦後補償問題は日本ではすでに過去のことと受け止められ、人々の耳目を集めることは稀だ。
台湾政府も改めて取り上げるつもりはないだろう。
2023年8月15日の全国戦没者追悼式もまた、戦後の通過儀礼として通り過ぎていった。
一年、一年と、圧倒的な数の史実が埋もれて消え、「戦争」への感覚は次第に鈍くなっていく。



台湾人への補償、給与未払問題は1974(昭和49)年12月にインドネシア・モロタイ島で元一等兵中村輝夫(李光輝)さんが発見されたことがきっかけになった。
先住民アミ族の中村さんは1943年志願兵として出征、敗戦後も29年間ジャングル生活を続け、55歳のときに見つかった。4年半後の1979年6月に病死する。

議員立法による台湾人戦没遺族等への補償が決定したのは1987年9月だった。戦病死者・重傷者には1人200万円の特定弔慰金(見舞金、一時金)が支給されたが、「給与」は未払いのまま残った。
当時は強制的に軍事郵便貯金とされ、一部は支払いが行われた。


台湾の2:28事件で父親が遭難した沖縄の青山惠昭さんが2016年に台湾政府から賠償金を得たとき、台湾の人たちからは「日本も台湾人の戦後補償を」という声があがった。
すでに7年が経った。補償問題の進展は聞かない。



奥多摩湖畔に慰霊碑が建てられた理由は、辺りの風景が台湾中部の景勝地、日月潭によく似ているからともいわれる。
杉林が大きくなって眺望はきかなくなったが、杉が幼かったころは湖が大きく広く望めたという。


日月潭。湖上の拉魯(ラールー)島はサオ族の聖地とされる


奥多摩湖は小河内ダムによって生まれたダム湖だ。
かつての小河内村は湖底に沈んだ。
日月潭の周りにあった先住民サオ族の集落も日本統治時代の発電所・ダム建設で湖面が広がり、水没した。
小河内ダムの着工は1938年、日月潭のダムも1934年に竣工した。
不思議な縁を感じた。


日月潭湖畔のサオ族の集落入口。1999年9月の台湾中部大地震後に
できた。「Ita Thao」は「私たちはサオ族」の意

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