アジア新風土記(77)台湾出兵150年




著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。




台湾の南部は北回帰線の南にあり、熱帯の気候は北部の台北などに比べて暑くなる時期も少しばかり早い。

5月ともなると高温多湿な日が続き、一年で最も不順な暮らしにくい季節のような気がする。

150年前、日本軍が台湾に出兵したときも同じような陽気だったのだろうか。
衛生状態が十分なわけではなく、海岸から一歩でも山間部に入れば密林が繁茂して風土病の蔓延する土地だったのではないかと想像する。

この煩熱(はんねつ)の地に1874(明治7)年の5月6日、明治政府は琉球・宮古島民を虐殺した先住民の討伐という名目で出兵した。

上陸した台湾海峡に面した海岸には亀山という丘のような山がある。
山裾に小さな碑がぽつんと立っていた。
文字は摩耗していてほとんど読めない。
2000年に建立された手前の「日軍討蕃軍本営地紀念碑記源」の碑がわずかにその由来を示しているだけだった。

3
日本軍上陸地の碑


台湾出兵のきっかけは1871年10月、宮古島民54人が先住民パイワン族に殺害された牡丹社(村)事件に遡る。

琉球の首里王府への貢納品を納めた石垣島、宮古島の役人らは帰途、嵐に遭遇する。

冬にさしかかるころ、宮古島から石垣島に連なる先島諸島海域は強風が吹き、
海は荒れていた。

4隻の貢納船の内、宮古島からの1隻が台湾東南部の八瑶湾に漂着する。
貢納船には役人、乗組員ら69人が乗っており、溺死した3人を除く66人が上陸する。


八瑶湾の浜には密林が迫っていた。
生き残った人たちは道なき森を西に向かい、パイワン族のクスクス社(村)にたどりつく。


宮古島民が漂着した八瑶湾

この集落でもてなしを受けたのだが、首狩りの慣習があることが頭にあり、
男衆が集落を離れた隙に逃げ出す。
先住民と商売をしていた漢人の家まで来たところで見つかり、54人が殺された。

12人は難を逃れ、漢人の手引きで安平(台南)から福建省・福州の琉球館に向かい、8か月後に那覇に帰ることができた。


福州の琉球館(長井弘勝氏撮影)


生還者の話は大筋以上のような顛末だった。

逃げ出した経緯はパイワン族の人たちが口伝えに聞いてきたことと食い違うところもある。
クスクス社の子孫の一人、バジルク(華阿財)さんは歓待の気持ちはあっても敵愾心はなかったのではと話してくれた。

芋と米を混ぜた鍋などの接待については「主食のタロイモは普通は皮をつけたまま食べる。わざわざ皮を剥いて切ってもてなしたのです」と語る。

男衆が「山で草と接触する」と言って出かけたことも、「草との接触」は狩りをするという意味でごちそうを用意するためだという。


宮古島の人たちが追いかけてきた先住民に次々と殺された真相はまだ不明なところが多い。
事件の推移は『牡丹社事件 マブイの行方』(平野久美子、集広舎、2019年)に詳しい。




明治政府は72年9月、琉球王国を琉球藩と改めさせ、「日本人である宮古島民」が虐殺されたとして謝罪と賠償を中国・清朝に求める。

翌年にも北京に特使を派遣して再度、謝罪を要求したが、清朝は先住民は「化外(けがい)の民」であり、統治の及ばぬところだと突っぱねた。
「化外の民」とは国家統治の及ばない者、ということだ。
その言質を取ったことが、責任追及のための出兵という強攻策に踏み切る追い風になった。


明治政府を動かしていたのは参議の大久保利通だった。
西郷隆盛らの征韓論を内治優先として退けたが、台湾出兵に関しては積極論者の一人だった。

台湾への派兵になぜ躊躇しなかったのか。
そこに大久保の朝鮮と琉球への視点の違いをみる。


薩摩・鹿児島藩出身の大久保にとって朝鮮は「外国」だったが、琉球は「属国」だった。

1609年、鹿児島藩は琉球王国に侵攻、中国、東南アジアとの交易で得る利権を手に入れる。

琉球は王国存続の代わりに税を納めるという条件を受け容れる。
以来、琉球は中国との朝貢関係を維持しながら、鹿児島藩の服属国となった。

250年以上続いた支配体制は鹿児島の人たちに琉球を「植民地」とする考え方を定着させるには十分の歳月だった。
琉球人を日本人と見なすことにもほとんど抵抗はなかったのではないか。



大久保と共に征韓論に反対した長州出身の木戸孝允は台湾出兵には賛成しなかった。

『日本近代史』(坂野潤治、ちくま新書、2012年)は『西南記伝』にある木戸の

「それ琉球、我に内附すといえども、その意半ば清国に在り。かつて聞く、その国の人我に対するの言に、日本に父として事(つか)え、清国には母として事うと云えり」

という言葉を伝える。

琉球の実情を冷静に見つめた木戸が参議を辞したことなどで派兵を一度は中止となる。

台湾出兵はしかし、西郷隆盛の弟従道によって突然強行される。
政府はこの独断専行による派兵を追認していく。
明治政府の実権が鹿児島藩出身者によって握られていたことが琉球の
不幸の一つだったと言えなくもない。


日本軍は熊本鎮台の兵に熊本、鹿児島の士族らを加えた約3600人。
亀山の本営地から東北に8キロほどの石門でパイワン族牡丹社と戦火を交える。

四重渓を挟んで両岸の険しい崖からの銃撃戦だった。
日本軍は兵力、火器に勝り、戦闘後は集落までも焼き払った。
戦死者12人に、先住民の口伝ではもっと多かったともいう。
マラリア、腸チフスなどの病死者は561人に達した。



石門・四重渓の戦場。かつては急流だったか。



熊本の士族有馬源内は

「全軍多クハ弛張熱(熱帯病)ニ罹リ、ソノ気燃ニ抵触セザル者十中ノ一ニモ及バズ」「ソノ難、言詞ノ尽クスベキニアラズ」

と書き残す。
『近代を駆け抜けた男 宮崎八郎とその時代』山本博昭、書肆侃侃房、2014年)

1874年10月、日本は清国と「日清両国互換条款」を調印、清国が日本の派兵を「義挙」と認め、日本軍は12月20日までに撤退することで合意した。

条款は宮古島民は日本人であり、琉球は日本領土ということを確定させた。
明治維新によって日本が近代国家として道を歩み始めてからまだ10年も経っていないときの出来事だ。

台湾出兵は単に琉球の帰属を求めただけだったのか。
海外領土への野望もまた秘められていたのだろうか。


亀山と石門の中程、車城郡統埔の村外れに「大日本琉球藩民五十四名墓」がある。


宮古島民の墓。西郷従道が揮毫した。


日本軍が地元民によって埋葬されていた遺骨を収集した。
詣でたときは風はまだ爽やかだった。
パイワン族の死者は女子供を含めてまだ正確にはわかっていない。
どのように葬られたのか。墓はあるのだろうか。
バジルクさんに尋ねなかったことをいま、申し訳なく思う。

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