アジア新風土記(54)タイの総選挙



著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。





タイ下院の総選挙(定数500-小選挙区400比例代表100)が2023年5月14日に行われた。革新色の強い野党「前進党」が151議席を確保して第1党、同じ野党のタクシン元首相派の「タイ貢献党」が141議席で第2党となり、両党合わせて過半数を優に超える292議席を占めた。
国軍の影響力が強い親軍派の与党「国民国家の力党」とプラユット首相率いる「タイ団結国家建設党」は合わせても76議席に留まった。タイ選管によると投票率は過去最高の75.71%だった。


総選挙は国軍をバックとした国民国家の力党が直前の指導権争いで、プラユット首相が新たに生まれたタイ団結国家建設党に合流するという与党分裂選挙となった。野党優勢が伝えられ、前進党が予想以上の票を集めて第1党となる。
42歳のピタ党首は米国・ハーバード大学などで学び、実業家から政界に転進した経歴を持つ。開票結果を受けて「首相になる準備がある」と述べた。


前進党は19年の前回総選挙で反軍政を掲げて第3党に躍進した「新未来党」の後継政党だ。新未来党が20年に憲法裁判所の解党命令によって解散させられた後、支持者らの受け皿として生まれた。
反軍政に加えてタブーとされてきた王室の変革を訴え、王室への中傷、侮辱に対する不敬罪を定めた「刑法112条」改正という大胆な政策で臨み、若者ら現状に飽き足らない人たちの心をつかんだ。

首都バンコクの小選挙区(33選挙区)で前進党が32議席を得たという結果は、若者らの主張、声が初めて国政の場で具体的な数字になって現れたことを端的に物語る。前回は30小選挙区(当時)で国民国家の力党11、新未来党10、タイ貢献党9と各党が拮抗していた。



22日、前進党、タイ貢献党など野党8党は連立に向けての覚書を交わし、312議席を確保する。
覚書には憲法改正、徴兵制から志願制への移行、同性婚法制化などが盛り込まれた。前進党以外の各党で立場が分かれる刑法112条の改正は先送りされた。
憲法裁判所の見解も政党の踏み込んだ動きを鈍らせる。
裁判所は21年11月、王室改革を要求した学生、弁護士ら3人に「立憲君主制転覆を試みた」として憲法違反という判断を示した。
性急な主張は「憲法違反」と受け止められ、解党命令につながりかねない。




王室の改革問題はワチラロンコン国王が一度は刑法112条の停止の意向を示しながら、王室批判の高まりを恐れて翻したという経緯もある。
しかし、若者らを中心に改正を求める抗議活動は収まる気配を見せない。
23年1月には王室車列の通行規制の街頭調査で不敬罪に問われた21歳の女性がハンガーストライキを続けた。その過激さについての賛否はあるが、考え方そのものはすでに市民権を得ているのではないか。



前進党は連立政権を目指す立場から改正を強く求めなかったが、政権獲得に成功した場合、同党を第1党に押し上げた若者らの気持ちをどうつなぎとめていくか。安易な妥協を続けると信頼を一挙に失う恐れがある。新国会で同党議員が改正法案を提出して論議するとしているが、実現に向けてのハードルは高い。


タイ貢献党は王室改革には消極的だ。
支持地盤である地方の人たちの離反を招きかねず、都市部の保守層からの強い反発も予想される。
いまも同党の実質的指導者であるタクシン元首相は公権力乱用、公金不正支出の罪で10年の実刑判決を受け、海外に逃がれたままだ。7月にも収監に応じる意向を示している元首相の帰国を円滑に実現させるために「無用」の混乱は避けたいという事情もある。


野党の連立協議はどこまで進展するのか。
覚書合意後、下院議長ポストを巡って前進党とタイ貢献党の対立が表面化、5月30日の話し合いでも解決の目途が立たなかった。
タイ貢献党は前進党から首相を出すのであれば、下院議長は第2党と主張、前進党は重要法案が提出された場合の議会運営の指導権を握りたいとして譲らなかった。
総選挙前はタイ貢献党と親軍派政党との連立が取りざたされたこともあった。前進党との政策協定が不調に終わった場合は再び浮上するかもしれない。



ピタ前進党首が活動休止中のテレビ会社株を保有していた問題もある。
与党議員が総選挙直前に選管に告発したもので、同党首は死去した父親から相続した株の買い手が見つからなかったと説明している。
憲法ではメディア株保有者の選挙立候補を禁じている。
新未来党のタナトーン党首がメディア株保有で議員資格を剥奪された例もある。
選管はどのような判断を下すのか。




新首相誕生までにはまだ相当の時間がかかる。
選管は選挙違反申し立ての審議などを経て7月中旬までに正式な選挙結果を発表する。その後新国会が召集され、首相の指名選挙に入る。
選出は早くて8月3日になるという報道もある。


指名選挙は下院議員500人に上院議員250人を加えた750人の投票で行われる。
過半数の376議席には覚書を交わした野党8党だけでは64議席足りない。

上院議員は19年5月に民政移管直前の軍事政権・国家平和秩序維持評議会(NCPO)が任命しており、国軍最高司令官、陸海空軍司令官ら国軍関係者はじめ親軍政党支持者が圧倒的に多い。

50人ほどは中立の立場だともいわれ、地元紙などは民意を尊重すべきだとする議員が増えていると伝える。ただ、多くは態度を決めかねており、前進党側がどこまで支持を広げられるかは不透明だ。



タイ貢献党に次ぐ70議席を獲得した「タイ名誉党」は刑法112条の改正を目指す政党、首相候補は支持しないとの声明を出している。
前回総選挙で与党入りした同党は党首のアヌティン副首相兼保健相が22年6月の麻薬リストからの大麻除外決定を積極的に推進した。
野党の覚書に大麻を再び麻薬リストに加えるという項目が入ったことで、連立への参加は一層難しくなった。



国軍の動向も気になる。ナロンパン陸軍司令官は総選挙前、クーデターの可能性を否定している。
親軍政党が政権与党から完全に除外された場合はどうか。選挙結果が国軍にどのような影響を与えるかの予測は困難だ。

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