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アジア新風土記(41) イランのヘジャブデモ
著者紹介 津田 邦宏(つだ・くにひろ) 1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。 |
イランの首都テヘランで2022年9月13日、マフサ・アミニさんという22歳の女性がヘジャブの被り方に問題があるとして「風紀警察」に逮捕され、3日後に死亡する事件が起きた。警察当局は「心臓発作」と説明したが、家族は逮捕されるまで健康上の問題はなかったと反論した。
クルド系のアミニさんの地元で行われた葬儀には当局の対応を批判する数千人が参列した。
抗議デモのスローガンになった「女性、命、自由」は埋葬式にクルド語で叫ばれ、翌日テヘラン大学の学生たちがペルシャ語のシュプレヒコールとして引き継いだ。(ケイワン・アブドリ神奈川大非常勤講師「女性、生命、自由―イラン・ヒジャーブ抗議運動の深層」・『論座RONZA』2022年10月25日)
「ヘジャブ」はペルシャ語でイスラム教の女性が多く身に着けるスカーフの総称で、アラビア語では「ヒジャブ」になる。風紀警察は主に女性の公の場所でのヘジャブ着用などをチェックする警察だ。
事件発生からすでに2か月が経つ。抗議行動は学生たちから市民へと、都市部から地方へと広がって、最高指導者ハメネイ師批判など反政府デモの様相を見せる。デモ弾圧の犠牲者も増え続け、ノルウェーを拠点とする人権団体「イラン・ヒューマン・ライツ」は11月12日「少なくとも326人が治安部隊に殺害された」と発表した。
政府は事態の鎮静化を図ってネットの接続を制限、テヘラン革命裁判所は13日にデモ参加者1人に死刑判決を言い渡すなど厳しい姿勢を打ち出すが、背景には深刻さを増す物価高、物資不足、失業などの社会不安があり、強権による制圧にも限界がある。明確な指導者のいないデモの連続が収束を困難にさせているという見方もある。政権内の取り締まり緩和を模索する動きに、保守強硬派の反対は強い。
イラン経済の悪化には米国の核合意離脱後、核開発に転じたイランに対する欧米などの原油禁輸制裁も影響している。バイデン米大統領の抗議デモ支持は政権批判と受け止められ、経済立て直しの切り札である核再合意と制裁解除の交渉は頓挫したままだ。
ヘジャブ着用の教えはイスラム教の聖典コーラン(クルアーン)による。
「信者の女たちに言ってやるがいい。かの女らの視線を低くし、貞淑を守れ。外に表われるものの外は、かの女らの美(や飾り)を目立たせてはならない。それからベェイルをその胸の上に垂れなさい。自分の夫または父の外は、かの女の美(や飾り)を表してはならない」
(日本ムスリム協会「聖クルアーン」24章御光章31節)
イランは651年、ゾロアスター(拝火)教を国教としていたササン朝ペルシャがアラブ人イスラム教徒によって滅ばされて以来イスラム教の国になった。中東ではかつて上流社会の女性が親族以外の人たちにベールなどで体を隠すならわしがあったといわれ、イスラム教の浸透とともにあらゆる階層で女性たちのヘジャブ姿が当たり前になった。
20世紀に入り、1925年にパフラヴィー朝を打ち立てたレザー・パフラヴィーは教育改革など旧来の慣習打破を目指したが、保守層などの反対にあって挫折する。後を襲ったモハンマド・レザー・パフラヴィー(パーレビ国王)は第二次大戦後、女性のヘジャブ着用禁止、イスラム教徒に限った地方選挙の選挙権制度撤廃などの政策を打ち出していく。国王絶対の開発独裁体制の下、社会は一気に自由化、西欧化が進んだ。
イランの「近代化」は1979年2月のイラン革命によって終わる。ホメイニ師を指導者とするイスラム教に厳格な国家はすべての女性にヘジャブの着用を指示、1983年からは公共の場では義務とされた。2006年に保守強硬派アフマディネジャド政権が風紀警察を導入すると取り締まりは一層強化された。
ヘジャブの被り方についての判断は時の政権の意向に大きく左右されてきた。2013年にアフマディネジャド政権に代わった保守穏健派ロハニ前大統領時代は規制が緩やかだった。
この時代の空気を2021年7月8日の朝日新聞デジタルにみる。
「若い女性が横断歩道を渡った。搾りたてのオレンジジュースを右手に持った、栗色のショートヘア。髪を覆うはずのヘジャブ(ヒジャブ)と呼ばれる布は、両肩に掛けただけ」
「若い男女が乗ったホンダのバイクが、高速道路を快走する。女性はヘルメットをしておらず、肩まである髪があらわになっていた」
2021年8月に就任したライシ大統領はイスラム原理主義者として法の厳守を訴え、ヘジャブの不適切な着用はイスラム社会における腐敗だとして取り締まり強化を改めて打ち出した。イラン革命からすでに43年が過ぎている。革命後に生まれた人たちは8400万人の国民の7割を超えたといわれる。彼らは革命を、そしてパーレビ国王の治世をどのようにみているのか。
アジアでイスラム教徒が多数を占める国は少なくない。地域によって名称の異なる「スカーフ」は、被り方もまた千差万別だ。東南アジアはマレーシアにしてもインドネシアにしても制約は緩く、様々な被り方があり、色はカラフルだ。各国の対応は社会の厳正な規範とするか、個人の判断に委ねるかで、自ずと変わってくる。仏教徒、ヒンズー教徒らとの共存かイスラム教徒がほとんどかという国の在り様によっても考え方の相違は生じてくる。
パーレビ国王の時代、アフガニスタン西部のヘラートからバスでテヘランまで走った。テヘランの街を歩いていると、道行く女性たちの多くは洋服を上手に着こなし、若い人たちのファッションは眩しかった。赤茶けた大地と土埃が沁みついたかのような服を見馴れていただけに、色彩の豊かな人と街との落差は大きかった。同じイスラム教徒でもここまで違うのかと思った。
イランという国にイスラム以前の残映はあるのだろうか。ペルシャの時代からの宗教が変わって久しいが、その地に暮らす人たちは昔から変わっていない。民族の血が受け継がれていくように、文化、あるいは美意識への感性もまた、人々の心の奥底に密やかに仕舞い込まれていくのだろうか。ヘジャブで髪を隠せということへの怒りを知るとき、自由とともに美しさへの渇望もまた、伝わってくるような気がした。