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梅田正己のコラム【パンセ19】「9・11から20年」報道にみる 大いなる欠落
9・11の惨劇から20周年を迎え、テレビではツインタワーが崩れ落ち、
灰白色の噴煙が空をおおう光景が繰り返し放映された。
日本人24名を含め、約3千人が犠牲となった。
遺族の悲しみは20年たつとも消えることはない。
その悲哀もメディアで伝えられた。
また「テロとの戦い」を呼号して米国の戦争史上最長の戦争に突入し、
2兆ドルの戦費を投じ、2400人の米兵の命を失いながら、
米国が事実上敗退せざるを得なかった事情についてもいろいろと論じられた。
しかし、当然論じられるべくして論じられなかった重要な問題が一つある、
と私は思う。
それは何か?
あのような史上空前の大量破壊・殺戮行為が、どうして引き起こされたのか、
という問題である。
およそ人間社会で惹起する事態には、必ず理由がある。
どんな事象にも、原因があり、プロセスがあって結果が生じるのである。
ところが9・11については、その「結果」についてはさまざまに報じられ、
論じられたが、あのような恐るべき事態がいかなる「原因」によって
引き起こされたのか、については殆んど論じられなかったのではないか。
あれほどの事件である。
当然、重大な原因と長期にわたるプロセスがあったはずだ。
◆発端は「湾岸戦争」
原因の発端は、1990年8月2日、イラクのサダム・フセインが突如、
小国クウェートに侵攻して併合を宣言したことから始まった
「湾岸危機」にあると私は考える。
この報を受け直ちに行動を開始したのが、父ブッシュ米大統領だった。
空母をアラビア海に向かわせるとともに、チェイニー国防長官をサウジアラビアに派遣、同国にイラク攻撃のための軍事基地の設置を要請(3日がかりの交渉で説き伏せる)、あわせて国連安保理でのイラク制裁の決議を呼びかける。
米国の強力な工作によって、安保理は8月には限定的だった武力行使容認を、
11月には限定なしで決議する。
この間、ペルシャ湾岸には米、英軍をはじめ各国の軍が集結する。
多国籍軍と呼んだ。
明けて91年1月、「湾岸危機」は「湾岸戦争」へと転換する。
以後6週間、ハイテク兵器とともに連日、数百の戦闘爆撃機が
イラク上空へ飛び、空爆を続けた。
こうして抵抗力を奪われたイラクに、2月、地上部隊が陸続と侵攻、
フセインはわずか3日で降伏、以後、最大の産油地帯であるアラブの地に
米軍部隊が基地を設けて駐留、世界の〝産業の血液〟である石油が米国の
覇権下に置かれることになる。
◆米軍〝聖地侵入〟への憎悪
サウジアラビアはイスラム教の聖地メッカ、メディナを擁する国である。
その地に異教徒の軍隊が入る、まして駐留することなど許されることではなかった。
それなのにサウジ王家は米国に屈してそれを許してしまった。
イスラム教徒の信仰心の深さ、アラブのナショナリズムの強烈さは
周知の通りである。だが軍事力ではとうてい米軍にかなわない。
反撃手段は勢いテロルに向かう。
95年11月、サウジの首都リヤドの米軍訓練施設の爆破、
翌96年の同国ダーランの米海兵隊宿舎への自爆テロ、
98年8月のケニア・ナイロビでの米大使館爆破などが引き起こされる。
その果ての飛躍がニューヨーク世界貿易センターへのハイジャック旅客機
による自爆テロだったのである。
米軍のアフガン空爆が始まってからまもなく、オサマ・ビンラディンの声明が
カタールの衛星放送から流された。
――「パレスチナに平和が訪れない限り、異教徒の軍隊がムハンマドの地から出て行かない限り、米国に平和は訪れない」
9・11の背景には、11年前のフセインの暴走に乗じての父ブッシュ大統領の
アラブ地域支配をめざしての軍事力発動による原因と、そこから派生した
イスラム教徒の抵抗のプロセスがあった。
しかし子ブッシュ大統領は、そうした経過には目もくれず、
ただちにアフガニスタンに爆弾の雨を降らせ、それでも足りずに、
5千年の歴史と首都バグダッドをもつイラクをもたたきつぶしたのである。
*
物事には必ず原因がある。その原因にまで立ち返って検証しない限り、
真実は明らかにならない。従って歴史にも学べない。
歴史に学ばなければ、悲惨な愚行が幾度も繰り返されることになる。
(2021年9月13日)