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梅田正己のコラム【パンセ18】 《「建国の日」を考える》
「神話史観」による「神国日本」の原点
梅田 正己
文字のなかった時代、どうしてそれが分かるのだろうか。
答えは日本最古の歴史書『古事記』『日本書紀』によるという。
◆予言説による架空の計算
この二書「記紀」は8世紀の初め、神武天皇以来の天皇家の歴史的記録として作られた。歴史書だから、紀元(出発点)となる初代の神武天皇の即位の年が必要となる。
そのさい用いたのが、中国古代の予言説である「讖繊(しんい)説」だ。当時は年を数えるのに十干(じっかん)(甲、乙、丙…癸(き))と十二支(子(ね)・丑(うし)・寅(とら)…亥(い))を組み合わせて使ったが(60年で一巡し還暦となる)纖緯説ではそのうち58番目の辛酉(しんゆう)(かのと・とり)の年には大変革が起こり、さらにその辛酉の年が21回くりかえされた年には決定的な変化がある、とされていた。
そこで直近の重大変革のあった辛酉の年はと見ると、聖徳太子が政治・宗教の大改革に踏み出した西暦601年がその年だ。それから60年を21回、すなわち1260年をさかのぼると、西暦で紀元前BC660年となる。この年こそが歴史の始まり、神武天皇の即位の年だったにちがいない、と先の二書の編纂者たちは考えたのである。
ところがここで困ったことが生じた。神武以降の歴代天皇の名は「帝紀」という記録に残されているが、そこに記された人数では1260年は埋めきれない。
それで苦肉の策として神武天皇の137歳(『古事記』。『日本書紀』では127歳)をはじめ100歳以上も長生きした天皇を続出させる羽目になったのだった。
ではもう一つ、2月11日という日付はどこから生まれたのだろうか。
『日本書紀』には、神武天皇の即位は辛酉(しんゆう)の年1月1日とある。そこで明治維新で生まれた新政府は明治5(1827)年に1月1日を「紀元節」として定めたが、同年末に旧暦を陽暦に切り変えた。そのため日付がズレて前年の1月1日が2月11日へ移動したのである。
◆2月11日は「帝国憲法」の日
以上からわかるように、第二次世界大戦で日本が敗北するまで紀元節として天長節(天皇誕生日)と共に最大の祝日とされた2月11日は架空の計算にもとづく虚構の日である。
ところが二次大戦前の日本では、このフィクションが歴史的事実とされ、学校ではこれが史実として教え込まれた。それに疑問をもつ者は「非国民」とされた。
フィクションを歴史的事実とする第一歩は明治22(1889)年だった。政府はこの日を選んで大日本帝国憲法を公布したのである。この憲法において「万世一系」つまり神武天皇以来2550年の血統を受け継ぐ天皇は「神聖なこの国の統治者」であり、陸海軍を統率する大元帥である、と宣言され、次いで翌年の2月11日には、軍人の勲功を称える「金鵄(きんし)勲章」が制定されたのだった。
虚構(フィクション)を事実としたこの国はさらに迷妄を深め、ついに「現人神(あらひとがみ)」天皇をいただく「神国」と信じるまでになり、子供に「日本ヨイ国、キヨイ国。世界ニ一ツノ 神の国」と唱えさせるとともに、多くの国民が戦争の末期、空襲で家を焼かれながらも最後は「神風」が吹くと信じ込んでいたのだった。冗談のようだが、ホントのことである。
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しかし1945年、第二次大戦での敗戦、翌46年の日本国憲法の公布により、日本が「天皇主権」から「国民主権」の国に生まれ変わると、当然「神国日本」の原点である紀元節は廃止された。
ところが「大日本帝国の時代」を懐かしみ「天皇陛下万歳!」を三唱したい政治勢力は57年以降、紀元節復活の運動を展開、66年ついに佐藤栄作内閣のもとで「建国記念の日」としてよみがえったのだった。
以来55年、この国ではインターネットが世界をつなぐ時代に、神話的虚構による「建国の日」を今なお祝い続ける。眠れる理性はいつになったら目覚めるのだろうか。
◆この一文は、2021年2月10日付「しんぶん赤旗」に寄稿、掲載されたものです
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