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沖縄百話 (50)【検証「沖縄人スパイ説」】=7回連載の第6回
これまで「沖縄人スパイ説」の諸相を見てきたが、これらを「混乱した戦場における異常な事件」としてだけ見るのは、〝木を見て森を見ない〟皮相な理解である。
実は、「沖縄人スパイ説」は、明治以来、帝国政府とくに帝国陸軍に地下水脈のように受け継がれてきた「沖縄人異端視」が根底にあり、これが戦場の極限状態のなかで一気に
噴出した「集団的狂気」の爆発であった、と私自身は判断している。
以下に、歴史にのこる沖縄異端視論の一端をピクアップしてみよう。
「沖縄人スパイ説」の背景には、明治以来、日本軍部の「沖縄人」に対する差別観と警戒心が根強く横たわっていた。徴兵事務を担当する歴代の沖縄連隊区司令部のマル秘文書には、次のような報告書が残っている。
①明治43年度『沖縄警備隊区徴募概況』「本県における軍事思想の幼稚なると国家思想の薄弱なるとは遂に徴兵を忌避し動もすれば兵役の義務を免れんとするもの多し」
②昭和9年 沖縄連隊区司令部『沖縄防備対策』「憂の最大なるは事大思想なり。・・・・・・事大思想は日本の強大と共に総てを大和化せるも之と同時に一時的にせよ現実に来たる強圧に対し厳として必ず操持すると誰が保証し得ん」
以上のような皇軍(天皇の軍隊)の沖縄人に対する潜在的な「沖縄差別」に加えて、昭和19(1944)年夏から、新たな沖縄差別の火種が降りかかってきた。
太平洋戦争で破竹の勢いで日本本土めざして進撃してくる米軍に対して、沖縄諸島が本土防衛の防波堤の役割をになわされ、中国や満州で泥沼の戦いを続けていた戦闘部隊がにわかに沖縄守備軍(第32軍)として編成され、それまで軍隊とはほとんど接触のなかった民間地区に、約11万人の実戦部隊が割り込んできて軍民雑居の状態となった。
実戦部隊がはじめて列島南端の島々に移駐してきたとき、生活習俗も言葉も内地(本土)とははなはだしく異なる「沖縄人」に対して、同胞としての親愛感は乏しかった。
それどころか、満州や中国の戦線で現地住民のスパイ(間諜)活動やゲリラ戦(遊撃戦)にさんざんな目にあわされた経験から、「沖縄人」にまで警戒心をいだくのも不思議ではない。
軍司令部はじめ各部隊の次のような命令文書や標語などを読むと、一般住民に対する「防諜対策」が異常なまでに強化されていく空気が伝わってくる。
①「防諜に厳に注意すべし」(牛島軍司令官訓示)
②「爾今[じこん]軍人軍属を問わず標準語以外の使用を禁ず。沖縄語を以て談話しある者は間諜とみなし処分する」(軍司令部『球会報』)
③「管下は所謂『デマ』多き土地柄にして、又管下全般に亘り、軍機密法に依る特殊地帯と指定せらるる等、防諜上極めて警戒を要する地域に鑑み、軍自体此の種違反者を出さざる如く万全の策を講ぜられ度」(第62師団命令文書)
④「諜者は常に身辺に在り、北満に在りたる心構に在るべし」(伊江島飛行場設営隊)
⑤「敵が飛行機其の他よりする宣伝ビラ散布の場合は早急に之を収拾纏め軍当局に送付すること。妄りに之を拾得し居る者は敵側『スパイ』と見倣し銃殺す」(鹿山隊文書)
⑥「島嶼作戦においては、原住民に気を許してはならぬ。原住民は敵が上陸してきたとき敵を誘導し、スパイ行為をするからである」(某部隊の訓令・『沖縄県史・第8巻)
このような沖縄県民に対する偏見にみちた先入観がやがて戦況が悪化するにつれて、住民を敵視し、護るべき国民に銃を向け、「スパイ嫌疑による住民虐殺事件」や「集団自決の強要」などの惨劇が各地で多発することになる。
原剛説では、沖縄の戦場では実際に敵のスパイが暗躍していたから(配慮を欠いた過剰な)防諜対策をとらざるを得なかった、として沖縄守備軍(第32軍)の立場を弁護しておられるが、これはつじつまの合わない論理である。
なぜなら、「沖縄人スパイ説」にもとづく一般県民を対象としたスパイ取締まり方針は、米軍来攻のはるか以前から準備されていたのである。
昭和20年3月の国頭支隊の秘密文書「秘密戦ニ関スル書類」には、
「一、防諜は本来敵の諜報宣伝謀略の防止把握にあるも、本島の如く民度低く且つ島嶼なるに於てはむしろ消極的即ち軍事初め国内諸策の防衛防止に重点を指向し戦局の推移に呼応し積極防諜に転換するを要す」
と明記されている。
沖縄における防諜対策は「積極防諜」という名の「住民対策」に転換されたのである。
関連文書ではさらに次のような「積極防諜」の具体的なターゲットが例示されている。
「(イ)反軍、反官的分子の有無、(ロ)外国帰朝者特に二世、三世にして反軍反官的言動を為す者ナキヤ、(ハ)反戦厭戦気運醸成の有無、(ニ)敵侵攻に対する部民ノ決意の程度、(ホ)一般部民ノ不平不満言動ノ有無、......を隠密裡に調査し報告すること」
防諜対策とはすなわち「スパイ取締り」のことである。スパイは軍法会議にかけて処刑されることになっていた。
しかし、沖縄では取調べもろくに為されず弁明の機会も与えられることなく「処刑」と称する「住民虐殺」が各地で多発したのである。